Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

日記

 明けない夜はないし止まない雨もないし覚めない夢もないし来なかった梅雨も来た。
 たぶん自分もいつか死ぬ。
 どうでもいいことをどうでもいいやと無視することはできなくはないのかもしれないけど、無視した所でなんらかの結果は伴ってしまうので、あとはその、どうやら必ず来るらしい明日を好意的に期待するしか無いんだろう。
 そんなことって出来るんでしょうか。
 そんなことが出来るくらい毎日を一生懸命に生きればいいんじゃないでしょうか。
 毎日を真剣に生きればたぶん。
 真剣に生きる能力がほしいところでございます。

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カテゴリ: むだ 

思いついたので書いておく。

結局なに書きたいのかわかんない感じになった。


音楽に「二次創作」っていう考え方はあまり無いように思う。
最近特にエレクトロっていうかそういうDJ、ダンスホール的な音楽を聞く機会が増えたんだけど、そういう所ではかなり豪快に切ったり貼ったりしているんだけど、そういうサンプリングやリミックスやアレンジやメドレーやマッシュアップやなんやかんやっていうことになっていて、二次創作とか引用とかオマージュなんていうのもあんまり見ない。


舞城王太郎は愛媛川十三に「文学なんてものはない」「文楽(ブンガク)やらせろ」なんて言わせている。
「学」なんていう格好つけた名前につけてしまったせいで高い高い敷居ができて、「判っている人間」と「判っていない人間」が出てきてしまった。
読んだり書いたりで遊んだり楽しんだりするのに明らかに特権的な敷居ができてしまって、時々入ったり出て行ったりできるようなものでなくソレを目指すような人にしかやりようのないモノになっているのは良くないだろ。
それに比べて音楽はどうだ。
好きな音楽を聞いたり歌ったり、あるいは自分で作ったり演奏したりして、あんまりよく「判ってない人たち」が自由にウロウロしている。

みたいなことを書いていたのが『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』に載っていたなあなんてことを思い出した。
3弦のならないバレーコードでひたすら叫んでも「音楽やってる!」って言えるように文学があるって言うのは面白いのかもしれないけど、例えばそういう鬱屈した僻みと妬みと嫉みと尊敬が「二次創作」とかそういうものを生んでるんじゃなかろうかと。

いままて、だったらそういう「二次創作」みたいな感覚ってどれくらい必要なんだろう?
二次創作がアレンジやサンプリング、リミックスと違って素晴らしいところってなんだろう?
例えば二次創作でなら美しくて可憐な美少女をずっぶずぶに蹂躙しても本編には影響を及ぼさない「個人の脳内作品世界」だから良いんだろうか?
いや、むしろ逆なんじゃないか。
二次創作が素晴らしかったら、それによって元の作品が、元の作品に対する視線が大きく変わってしまうんじゃないだろうか。

文章は産み落とされてしまえば最後、誰にどう読まれるかなんていうことはもう作者にはどうしようもない。誰かの解釈によって誰かの読み方が生まれ、「もっともらしい読み方」が生まれることで「何やら正解らしいもの」ができ、更にそれらは時代やら書き手についての研究やらでいくらでも変わってしまう。
音楽は曲そのものと演者がいて成るものだから、ひとつの曲を無数の演者が扱っても「各々の演者の色がある」となって曲自体が変質することはない。曲に対する解釈で表現の可能性はたしかに残されているが、そのときの「曲自体」と「演者」ははっきりと隔絶されている。
だいたい小説みたいなものはむやみにつけ入る隙を作りすぎている。そのくせ権威ばっているので、馬鹿馬鹿しい読みは相手にされない。
いっそ歌の歌詞のように始めっから意味なんてないんじゃねーのと開き直れるくらいがいいんじゃないだろうか。

いや、そうじゃなくて、そもそも僕は「文学と音楽で、ありそうでないものってあるよね。あんまり近づきすぎなくていいんじゃない」という擁護の思いつきを書こうとしていたんじゃなかったっけ?
どうして「近づいていこう」みたいな話になってるんだ?

ところで『這いよれ!ニャル子さん』の1期エンディング『ずっと Be with you』が今更になっていいなあと思い始めている。
いやいいですよこれほんと。

そういえば、アレンジやリミックスでない解釈や二次創作は神話を生み出すな、なんてことを思いついたから書いておく。
国生みやなんかですら、どこが最初なのかは分からないが、世界各国に似たような神話がある。あれは完全に二次創作だし、神話や、聖書なんかもオカルティックな与太話に解釈と深読みがこじれにこじれてとんでもない規模になってしまっている。
再利用の敷居が高いために後戻りできなくなっているようにも見える。
あるいは音楽の再利用の敷居がほぼほぼフラットなので神話になりようがないのかもしれない。
ほぼフラットで、再利用すればそれは「新しい曲」として受け入れられる反面、「パクリ」として公に近づいてゆくことも許されないので、巨大な音楽はそれひとつとしてしか成り立ちようがない。
最近だとクトゥルフ神話のような物もあり、これを最初に知ったとき、互いに互いを利用し合う姿が落語の『月宮殿』みたいだななんて思った。

ところで思い出したのでこれも書いておくが、AmazonがKindle Worldsなんちゅうサービスで公認二次創作のサービスを始めていて、まだ日本ではやっていないようだけどコレはまさに二次作品が一次作品に影響を与えるもので面白いと思う。
どうなるんだろう。

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カテゴリ: めも 

ミネルヴァ報告書


ぜんっぜん更新してなかったので更新する。

続きも書きたいんだけど何にも思いつかないので寝る。


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カテゴリ: おはなし 

かんばせいしょん・ぽえじー


「すきだよ」
「そう。誰が?」
「きみのことが」
「ふうん。なぜ?」
「さて、なんでだろうね」
「あらそう? 残念だわ」
「ざんねん、っていうのは……」
「答えられたら付き合ってあげる」

「ふうん。なぜ?」
「こころにりゆうなんていらないさ」
「それで、どうしたいの?」
「そうだね、つきあおうか」
「それで?」
「それ、で?」
「付き合ってどうするの?」
「どう、したいのかなあ……」
「惜しいわね。でも残念だわ」

「それで?」
「それで、ねえ……」
「付き合ってどうするの?」
「たのしいことは、いっしょにかんがえていけるよ」
「ま、ナシではないわね」
「じゃあ、つきあおうよ」
「あなたは私が欲しくて付き合うのね、じゃあ私はあなたから何を得られるのかしら?」

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カテゴリ: とちゅう  おはなし 

日記

06月24日 日曜日
 明日は燃えるゴミの日だから、家にある空き箱を全部潰して千切り、紙くずにした。たぶん一週間分以上はあると思う。だいたい一人暮らしの燃えるゴミなんて大した分量にはならないのだけど、かといって生ゴミの分を考えると毎週出さない訳にはいかないから、こうやってある種ゴミを増やすような行為をしないともったいなくて仕方ない。ゴミ袋だってタダではない。
 排水口に絡まった自分の髪の毛を引き剥がしまとめて捨てる。抜け落ちた髪の毛が、元は自分のものであったにもかかわらず汚く感じるのは、それが排泄物だからに違いない。要らないものは捨てられる。汚れたものは捨てられる。その捨てられたものが臭気を発しながら相変わらず、間違いなく、自分自身であるということを感じる。ここでこのように呼吸しているのも、そこでああして無数の水垢に絡まっている醜いのも、どちらも自分。違いはなんだろう。生きているか、死んでいるか、ということだろうか。
 僕は生きているだろうか。

 厚手のキッチンタオルを二枚つかって、なるべくその触り心地を感じないようにしてそっと摘んだ。風呂の排水口の蓋は昨日の夜のうちから開けておいていたが、排水口に絡まる自分の髪はその奥のほうがまだじっとりと濡れていた。キッチンタオルは厚手だから、その水分は指先までは触れない。しかし確かに感じる、この手のなかの髪の毛から滲み出す水分の感覚。
 気持ち悪い。気持ち悪いのでさっさとゴミ袋にしまう。ゴミ袋の中の、白い不織紙に包まれた「自分自身」の姿を見ている。燃えるゴミ、生ゴミになったもう一方の自分自身。ただ黙って見ている。
 この中にあるのは燃えるゴミだ、生ゴミだ。そして、それはさっきまでそこにあった「自分自身」だ。自分が自分を捨てる。捨てている。捨てざるを得ない。だから捨てる。

 ぬるぬると濡れた排水口や、そこに絡み付いていた抜け毛が気持ち悪いというのではない。この見るからに触るからに気持ちの悪い、臭気を放つ物体が、元は自分の一部で在ったという事――でもない。本当に気持ちが悪いのは、「これ」が自分であり、必然、自分も、この、今のこの体も、「これ」になるのだ、なってしまうのだ、という事実。逃れようのない事実。
 何かを、殺さずには。何かの命を奪わずには生きてゆくことは出来ない。――そんなわかりきったことを――。奪った残りの命は。命だったものは。
 生ゴミ。そうだ。命の最終到達点は生ゴミ。
 僕は自分の体が生ゴミになるのを感じるのが苦痛だ。いつまで経っても気持ち悪くてたまらない。見なければ済むものを、と言うのは簡単だ。だた言うだけのことはあまりにも簡単すぎて、それは暴力に違いない。暴力は伝染するという。自分にできないことすら、人は簡単に言ってしまう。誰に? 自分に。

 誰かを騙すことを簡単だとは思わない。自分を騙すことだって難しいのに。だけどそれすら勘違いかもしれない。自分は正直者だ。自分を押し殺してなどいない。自分は自分を騙せるほど器用じゃない。そうやって自分の清らかさを信用して、信用しきって、それだけを頼りに、無垢に生きているのかもしれない。自分を人間だと純粋に確信することは、すばらしい。
 髪が抜け、垢を摺り、糞をして、こうして毎日、自分の体が生ゴミになってゆくのを感じる。さっきまで確かに自分だったものが、ほらこうして目の前に、触るのも汚らわしいほどの生ゴミになっている。オンナノヒトはこんなことを毎月、それも相当の苦痛を伴って処理しているのだと思うと、想像するだけで死にたくなる。

 
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