Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

知の壁 〜私は影響されやすい〜



『無知な事は罪である』

中学校の時、先生に言われた言葉で、何だかとても強く残っています。



最近は『ト○ビア』や『う○ちく王』とかで豆知識も人気者になりました。
しかし、同時にそれを鬱陶しく思ったりする人もいるんですね。

ですが、脳の特性からいっても新たな知識が入ることは脳にいいらしいです。
それに知識がなくて後悔したことはあっても、知識があって後悔したことはないと思います。
まず私は今までにありません。

しかしながら最近、情報からくる“知識”と考えることで身に付く“知恵”とを混同してしまっている方々をよく見ます。
ですが、今回私が言いたいのはそこではないのでまた今度。


今回は“先入観”について話します。

今、私達の周りには情報を得る道具が至る所にあります。
私達の疑問に色々な形で応えてくれます。ですが、当然応えてくれたもの全てが答であるとは限りません。『正しい答がどれか、的確に選ばなくてはならない』という話はよく聞きますね。
何故か。『それは答の中には嘘を言っている場合があるから』なるほど正解。しかし、こうも考えられないでしょうか。 「何を主(しゅ)と置くか解答者により異なるから」 と。

ある事柄について述べる時、大抵の人が『自分の考え』というものを持っています。そこには必ず答を自分の中から導き出す為のいわば“コンパス”のようなものがあるのです。
そのコンパスこそが“言いたいことの主”となる訳ですね。

意識的にも、無意識的にも解答者になった人はそのコンパスを使い自分なりの答を出そうとする。

けれど、そのコンパスを、生まれながらに完成した状態で持っている人などいないのです。
周りの世界を見聞き、体感し、学ぶことで完成させるのです。
このコンパスこそが私の言う先入観なんです。

今度はきく側の話、
人の話をよくきいて学習することは大変よろしいことですが、最近は『学習=学び』であると思い込んで、知識の採集に勤しむあまり考えることを忘れているようです。
これが恐ろしいことだとわかるでしょうか?
知識を自分にコピーすることはつまり相手を自分にコピーすることです。しかも、情報(知識)を得る道具の発達した今の世の中では先程の“コンパス”までも、コピー出来るようにしてしまうのです。
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届く光、伝わる想い









「あきの夜空には  光がある

私はいつしかその光に魅せられていた。



あきの光には距離があった

冷めた私の此処を照らし、温めてくれる

私に伝わってくるあなたを、私は身近なものだと思っていた

しかし同時に、触れる事すら出来ない程遠くにあることも感じた。



けれど私は見上げることをやめなかった


見上げたあなたは、私がいくら見つめても変わらぬその光を与えてくれた。



私は嬉しかった。私は楽しかった。私は好きになった。



見上げているだけで十分なはずだった。



私はいつしか夜空を見上げたまま歩くようになった

私の心はあきの夜空に手を伸ばしていた

そして、とうとう話かけた。



私の手は秋風に冷やされ、返ってきた

その手は私に私を見つめさせた。



悩んだ

私が少しの我慢をしていれば、この幸せは変わらぬその姿を保ち続けたのではないかと

そして何より、こんな私が喋りかけていいのかと
グシャグシャの頭で、ボロボロの布を被り、壊れた眼鏡をかけたまま、片足を引きずって歩く私に何が言えるのかと。



私は目を背けた

夜空を見たくないからではない

恥ずかしいのか申し訳ないのか、私には下を向くしか思いつかなかった。



私があなたを見つめるとき、あなたにも私が見えている

耐えられなかった

そうして私は逃げようとした。



すぐに後ろへ下がってしまっていた。



それでも、そんな私にも、あなたは優しかった


あなたは私にその温かな手を差し伸べてくれた。



もう、避ける必要などない。



今なら私は、しっかりとあきの夜空を見つめることができる。



私も今、この両手を伸ばしてあなたを求めます。


私は、あなたに出会い、あなたに認めてもらえた私を、誇に思う。






さあ、これから。
たった今から。







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こころメモ





1)『自分を持って生きる』と言うこと、それはつまり『普通をみる力を持つこと』

普通と自分を正しく比べられること。





2)『木を切らない努力をするぐらいなら、木を植える行動をしろ。
その方がよっぽどわかりやすくて確実だ。
何せ木は勝手に育つ』





3)『どうして勉強しなきゃいけないんですか?』

『何もわからず送る生活は楽しいですか?』





4)『どうして人を殺してはいけないのですか?』

『ではあなたは殺した“それ”を元に戻せますか?』





5)『どうして規則ばかりで自由が無いんですか?』

『舗装されていない道を歩くのは楽しいでしょう。しかし、道具の準備もせずに自由な旅が出来ますか?』





6)『私は今、楽しいです。
私は今、あなたと会話しています。
あなたは今、楽しいですか?』





7)『みた。憧れた。学んだ。考えた。あとは、あとは動くだけ』





8)『明日は明日の私に任せて、今日の私は有終の美を飾ろう』





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最近いくら文を書いても全くまとまりがつかず聞き手・読み手に大変な迷惑をかけていると思いつつも少しでも伝わればと祈りつつ贈る貧弱な文章




ふと、何の前触れもなく淋しくなることはないか?


私は、「たまに」ある。




私とあなたは生きている。
それも2つの世界で同時に。



私とあなたは同じヒトである。
目・耳・鼻・脳・・・同じ器官をもち、同じ世界で生きている。
概念世界でのあなたと私は『同じ』なのである。


また、
私は沢山の細胞で成っている。
そしてその細胞は日々生まれ変わる。
つまり昨日と今日の私は全くの別人なのだ。
無論、あなたと私は全くもって違ったモノである。




「私は今日、とても美しく輝く月をみた。その月は深い黒の夜空の一点で金色に光り....」待て、『金色』まあ、私には確かにそうみえた。

しかし、その時あなたと一緒に居たとして、同じように同じ月をみたとする。
果たしてその時私が感じる光とあなたが感じる光は同じなのか?

まるで当たり前のように言っている『赤・青・緑・・・』
果たして私が思う『それら』とあなたが思う『それら』は同じなのか?



そんな不安が時たまよぎる。


そういう時、私は喋る。
とにかく喋る。
ひたすらに。

そして聴く。
話を聴く。
黙ってはいられないが、出来る限り黙って聴く。


言葉は自分の感じたことを伝える、唯一の、一番の道具である。

だから「あなたを知りたいし、あなたを知りたい」そんな時、私は喋る。



お喋りの苦手な人は恐らく『知りたい・知られたい』とあまり思わんのだろう。



まあ、知るも知られるも、喋るも喋らんもあんたらの勝手であり私には関係ない。


しかし、外をみようとしない、自分の殻に閉じ籠もった“井の中の蛙”
私には格好いいとは到底思えん。

それに何より、近くにそんな人がいたら、私は淋しい。




淋しい思いはさせたくない。それが大切な人なら尚更だ。
少なくとも私はしたくない。









どちらかといえば心地良く生きたい。
それは皆“同じ”ではなかろうか。







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   器







  次元
一次元、二次元、三次元........
この世には幾つもの次元があると昔どこかの本で見た。
だが、それが一体いくつまで在るのか、私は知らない。
まず、よく判らない。



その本にはこんな事も書かれていた。

『一次元の“線”に棲むモノは二次元の“広さ”を解らず、二次元の“平面”に棲むモノ一次元は解っても、三次元の“高さが解らないんだ』

自分の許容範囲内なら他の世界も理解出来る。しかし、自分の許容範囲外の事は見ることさえ出来ない。(図があれば分かり易いのだが)



人の技術の巧みさや、心の広さをみて、その姿を昔の人は『器』と言った。

実に分かり易い。
奴に言いたい不満、奴から相談された不安。その全てを優しく受け入れ、支えてくれる器。

小さな器の人は頼って貰えない。
大きな器を持つ人は多くの人に信頼される。
小さな器の人はこぢんまりと終わる。
大きな器の人は他の誰かも支えられる。



感じて頂けたろうか。
次元と器はよく似ているということを。



しかし、次元と人の器には大きな違いがある。



次元というモノはその世界だけで終わってしまうが、人の器は広げることが出来る。



無論、生まれつき器の大きな人間なんていない。

ところが私の身の回りだけでも数多く、器の大きな、素敵な人が居る。

つまり器は広くなるモノなのである。


広くなるモノだが、それは勝手に広くなる事はない。
自らの手で、努力の結果、努力の分だけ広がるものである。



どんな人も生きていれば、今ある己の器では受けきれない程の重圧に遭遇する。
その時こそ器を広げるチャンスである。

人によっては耐えきれず器を壊してしまう人もいる。
そんな時には誰かに頼ればいい。多少の迷惑かけたって「ごめん」の一言で許される。それが友。


何も焦ることは無い。ゆっくり広げて行けばいいのだ。







チャンスを目の前にして逃げ出さず、存分に活かせ。


真っ向から几帳面に向かい過ぎず、休んだり、隙を探したりするのもいい。


器を持ち疲れたら、隣で微笑んでいる友人に少し支えて貰えばいい。


狭い世界で糞ツマラン人生を送るより、大きな器で広い世界を生きた方が楽しい。『大きな器』という目標を忘れないように。







これが私の言いたかったこと。
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