Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

とても簡単なこと。



(1)

 管弦楽はもう平気っぽいです。
 弦アンサンブル系も大丈夫みたいです。
 ビックバンドジャズはもともとそんなに好きじゃなかったので分かりませんが、まあなんとか聴くことは出来るみたいです。
 サキソフォンのソロ楽曲はかなり辛いです。ギリギリアウト、という感じ。
 同アンサンブルは意外にも平気です。ちゃんと音楽を聞いて感動できるくらいに。しかしフラッシュバックにはまだ襲われます。
 吹奏楽曲は完全にダメです。テレビでかすかに流れても反応してしまいます。今までの、自分の領分のものに対するような反応ではなく、違和感というか、言いたくはありませんが微かな嫌悪感のようなものが、まだ確実に残っています。

 間違いの種を植えたのは僕であり、それらに対してまっとうな対処を怠ってきたのも僕自身。僕は僕に対して罪を犯し、そのために僕は僕に償わねばならないのです。
 僕は過ち、僕を不幸にした。だから僕は努め、僕を幸福にしなくてはならないのです。

 これは自省ではありません。
 これは逃亡ではありません。
 これは後悔ではありません。
 これは謝罪ではありません。
 これは請罪ではありません。
 これは償いではありません。
 これは諦めではありません。
 これは希望です。
 これは決意です。
 
 僕が僕の中に見つけたものは、
  後悔と、
   絶望と、
    諦めと、
     使命と、
      目標と、
       目的でした。

 あとは、勇気と、努力だけです。
 とてもとても、簡単なことです。




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カテゴリ: おはなし  じぶん 

哲学のSF


 人間が哲学をするのは、それは世界に向けての愛である。
 自分に見えているすべてを理解し、自分自身を理解しようとする。
 愛智。それが人間の持つ確かな本能なのだ。

 しかし考えたことはないだろうか。多くの人間たちがどうしてこんな、何のためにもならないものを追い求めてきたのかと。
 愛を持つことがよい。
 真理を知ることがよい。
 はたしてそうなのだろうか。だがそうするよりほかないのだ。愛すること、求めること、成長することこそが生きているということであり、生きてゆくということなのだから。
 そうやって自分を追いつめて束縛するのをやめれば人間は簡単に死ぬ。
 そして死ぬのは嫌だというのが生物としての本能だろう。ということになっているから、人間は哲学をする。

 いいや、違う。と僕は仮定する。
 死にたくないから哲学をするのではなくて、哲学をし続けるために死にたくないと活動し続ける思考構造を持って生まれてきたのではないだろうか、と。
 持って生まれてきたとはどういうことか。それは与えられて生まれてきたとも言えるのではないか。

 僕は言う、哲学は愛の行為だ。
 僕は問う、哲学で何を得るのか。

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カテゴリ: おはなし  じぶん 

私は本を読んでいる〜女性作家編〜


 つっても直近で読んだのは唯川恵と本谷有希子で、今読んでるのが山本文緒と有川浩(予定)なんで、こうして並べて見るとまあそうたいしたことないのかななんて思うわけです。

 唯川恵はまあ置いといて、ついこの間読了した「本谷有希子」この人の作品について。ショージキ僕は漫画も小説もいわゆるジャケ買いをしてしまうタイプでして(悪癖でありますな)。といってもこの『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のカバー絵は、あの! 山本直樹センセイですよ! ほんとにもー・・・しかしながらここで僕の山本直樹愛を滔々と語りだしたところでそれは本題からの脱線以外の何者でもないのだからやめにし、というかもう既に脱線しているだろう! ということで話を戻しますと、戻しますと、、、えーっとなんだっけ?
 出会いは某世界的超大規模超書店、その姿なき密林の中で僕はコレに出会ったのです。デザインとしての素晴らしさは前述のとおりだけれども、いかんせん僕はニートであるからして慢性的な資金不足である。が、いやなにそれも大した問題ではない。本は万人に開かれていなくてはならないというように書店には立ち読みという素晴らしいサービス体系があるではないか! だが、僕はここで驚愕の事実にぶちのめされることになる。そうだ、密林での立ち読みは物理的に不可能だったのだ! だがここで購入を決めるのはまだ早い。僕の足元をみると自分ではない誰かの足跡が多数ある。かつて僕と同じように購入を夢見てこの密林に足を踏み入れていった者たちの残したものだ。そして僕はそれをありがたく利用させてもらう。1つには「コレはとんでもなく素晴らしい本です3冊は買いましょう!」と書いてあり僕はこれでこの本を高く評価している人がいることを知る。またひとつには「こんなペラッペラでスカッスカな本に500円も払う価値なし!」と罵っていらっしゃる御仁もおられ。と、そんな感じで彼らの足跡もとい簡易読書感想文を読んでいくと一つ気になるものが。それによると、なにやらこの作者の本谷有希子さんは演劇とか舞台とかつまりは劇作家の人らしく、しかもなかなかの賞をいただいてるとか。しかもこの件の本は三島賞候補になられたとか! うん! 買い!
 と、ここまでが買うまでのお話。
 で、内容の方なんだけど触れる? まあもうここまで書いたし触れなくてもいいかなぁなんて・・・いやいやそんな怠惰な僕ではありませんので仕方ないから君たちのためにめんどくせえなあとかなんでこんなことやってんだよ俺キチガイかよバカかよとか漏らしながら感想書いていきたいと思います(やっとこさ)。
 この作品は三人称視点を主軸にして作品を形作っています。この神の視点での地の文がまさに描写描写描写のうえに描写といった感じで、それが舞台となる典型的な日本の田舎の描写であり、そしてその村に役者たちが抱く閉塞感をじわじわと表現しているという意味では効果的なのかもしれないが、しかしながらマエヒョーバンのセンニューカンのバカヤローのせいかこの「ただそこにあるものを書き出す」という書き方が、「どうも劇の台本のト書きのようで味気ない」と言われても、まあ確かにそんなような気もする。
 お話の形の方に入りますと「ほほうなるほど」と思ったのは、ちいさな区切り区切りで焦点をあてる登場人物をコロコロとかえる手法。特に何も考えず脳みそパッパラパー状態でページをめくるとなにがどうなっているのかわからなくなるのです。ワケワカラン感じでフラフラさせて世界に引っ張り込み、登場人物ひとりひとりのドラマを魅せることで物語の深部へと引き摺り込む。
 ほいで、内容の方なのですけれども、これが、うーん・・・誰を主にして見るかにもよると思うんですよね。姉か、妹か、兄か、その嫁か。
 村という「実家」であり「牢獄のような場所]、そして脱出した先にある「希望の地」であり姉の挫折とそれでも捨てきれない夢の「目的地」としての東京。
 中身的には非常に陳腐です。先程の描写重視の三人称視点という書き方はその狙いも含め「正しい小説の書き方参考例」といってもいいくらいものが昔からありますし、挫折→文通→「しかしその相手が!」みたいなのはそろそろ古典と言ってもいいんじゃないかと言うくらいの展開なわけでして・・・
 いや! 面白かったんですよ! この古臭い形式に主役として当てられているのは明らかに姉さんなのですが、この作品自体の主役は妹なんですよね。つまり物語の表面上の主役と裏――とも言えないなにか中途半端な位置――の主役が異なる。ということにこの作品の面白さがあるのだろうと思う。


 まあ、まだ1回しか読んでないんだけどね。



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カテゴリ: おはなし  きをく 

密林に立つ



 「好々爺」といってしまうのは彼の年齢から考えてもさすがにまだ早いだろうし、僕自身も少し気恥ずかしいところがある。
 しかし夕食の団らんの後、一人テーブルに残りテレビを見ながら泡の薄くなったビールを飲む彼の横顔をみていると、それはとても優しく、幸福に満ちていてまさに「好々爺」という言葉がふんわりと僕の頭の中に満ちてゆく。

 僕はお酒を飲んでいる彼が好きだ。「それ以外の時が気難しいとか近寄り難いとかひたすら怖くて酒でも飲んでてくれないと」とかいうことではない。
 彼は仕事をしている。それも多くの人間を統率する仕事である。朝早くから夜遅くまでの毎日である。
 ある一日をある一人としてある仕事を真っ当に果たした後、我が家という家族という帰るべき場所でようやく何ものにも代え難い安息に包まれているそれらの姿を見て、もう何の間違いもなく彼が僕らの大黒柱と呼ぶにふさわしい大きな人であることを認めるのだ。そしてその背中から、僕らは努力と辛抱と成功と大きな大きな愛を強く強く感じる。
 そして僕はその姿を見て、かくありたい、と思うのだ。

 親と子は似るものだ。生物としてそれは自然なことだし、人間はとても長い時間を親と暮らすのだから赤の他人よりは似ているに決まっている。
 僕たちは三人兄弟で、僕には成績優秀で運動神経も良い音楽家の兄と、まだ幼いが努力家で「日々」というものを怠らない妹がいる。どちらも僕の自慢だ。そして僕らもまた先と同じ理由で似ているといえるし、実際似ている。

 僕らにもっとも近しい人が言うには、僕は兄弟の誰よりも父に似ているのだという。
 前にも言ったように父は尊敬されるような人間である。たしかに親子が似るのは当然であると言ったが、他の候補(しかもより優秀な)がいる中で一番の落ちこぼれである僕が選ばれるというのはどういうことだろう。これは何かの間違いである可能性がある。
 しかし、残念なことに、僕と父さんが似ていると言い出したのは他ならぬ母であり、それはつまり家族のすべてを見、家族のすべてを握る人間の観察から導き出された答えであるので、僕ごときにあらがう余地はないのだ。

 たしかに、僕は父と似ているといえる。これは明らかな事実だ。くしゃみの時の爆発力や居眠りの時の不可解な姿勢、普段しない料理の局所的なこだわり方や嫌みや皮肉を言うときのなんとも可愛らしくない感じ。
 似ていないと言えば間違いなく嘘になるし、似ているからといって困ったり嫌な思いをしたりもしない。むしろ嬉しく思うことすらある。面映ゆい思いをすることはあるが。

 しかしながら僕と父には大きな違いがある。それは、父は手を抜かずきちんと勉強をし地道にこつこつと努力をして事を成すような人であるのに対し、僕はたった一つのことに対しても敢えて努力をせずできうる限りの手抜きと取り返しのつかない位の怠惰でもって時間に牽引されながらずるずると進む人生の僕とは全く違うのである。

 大きな、大きな違いである。

 僕はこの僅かな人生において沢山のものを失った。
 しかしそれらは「やむなく失った」のではなく、気がついたら取り戻せないところまで見送ってしまっていたのだ。

 選びもせず、捨てもせず、怠惰とともに大きくなったこの目の前の密林を見よ。何が見えるだろう。反省か、虚無感か、怒りか、絶望か、それともこの先いつか出会うかもしれないような微かな希望でも見えるというのか。
 僕には見えない。何も見えない。
 僕は僕が作り出した大きな大きな樹海の中で、地図もなく方位磁針もきかない大きな大きな樹海の中で、出口も目指すべき場所も定かでないまま歩き続けようと言うのか!

 僕は密林に立つ。


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カテゴリ: おはなし 

Mr.child


ミスチルを聴くと中学時代を思い出す。

特にアルバム「シフクノオト」は僕の記憶のど真ん中に座っていて、僕はそれを退けることもできないんだ。

僕の記憶の時間の中の「それら」を退けられないのは、
「それら」があまりにも強い記憶だから、というわけではなくて。
「それら」があまりにも大きな存在だから、というわけでもなくて。

僕の記憶の時間の中の「それら」を退けられないのは、

そもそも僕は「それら」を見つめる事ができからなんだ。


「それら」を核とする中学時代の僕の記憶

振返るとどうだろう、楽しくて、明るくて、眩しくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、辛くて、苦しくて、、、

何の不安も反省も気兼ねもなく「それら」を「今の僕」が楽しめるようになるために、幸せに過去を振返られるようになるために僕は何かしなきゃいけないのだろうけど、そもそも「今の僕」は「それら」に立ち向かうことも出来ずにいるんだ。



中学の時の同級生・先輩・後輩・先生その他沢山の人々に対して僕は罪の意識を感じているんだ。「反省している」では済まないくらいに。
今は立ち向かう勇気すら無い状態。


ミスチルを引き金に僕はとうに過ぎ去った中学時代
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カテゴリ: じぶん