私は小さい頃からよく『気難しい奴だ』と言われてきた。

頭の回転が速いとは言えなかった(当然今も)私は考え込む事が多く、よく喋るのも、会話を待ってくれる先生とが多かった。


そんな私も大喧嘩をした。
理由はほんの些細な事。今思えば阿呆みたいな意地の張り合い。
そして三日後には無事に仲直りしてた。


『喧嘩するほど仲が良い』けれど私はそれとはまた違った考えを持つようになった。

喧嘩別れも仲直りも、始まりも終わりも言葉である。




私は人間を進化の先端だと思ったことは一度も無い。
頭に付いたデカい理性の塊のせいで他の生物の様に、本能で相手のコトを読めないし、当然仕草で意志を伝えたりも出来ない。


物事はその多くが補完的であり、「足りない」だけでは終わらない。
その足りない(足りなくなってしまった)部分を言葉が埋める。その役割を請け負っているのだと私は考える


言葉の在るべきは『can』ではなく、『must』だと私は思う。


隣人は勿論、妻も夫も我が子でさえも、言うなれば他人。他の人である。
そんな互いの心を示すのは唯一言葉だけなのだ。

聞こえなくても見えなくても、言葉はどの世界にもある。

それは言葉が必要だからなのだ。

在って当たり前なのではない。なくてはならないモノ。


しかし、最近は言葉ないし文字に対しての意識が薄れてきていると、私は感じる。



だがしかし、前にも言ったかもしれないが、私は勿体無いのが嫌だ。


存在すべきモノがまだちゃんと存在している。

遣わないなんて勿体無いことはしたくない。

せっかくなんだからみんなでもっと言葉を遣おうではないか。


















楽しく、生きよう。










ここで私の言う『言葉』というモノの意味は一般的なものとは異なるかも知れません。

私の著したい意味を汲み取って頂けると幸いです。