私たちは、今日の平和な日常を、また、未来の平和を手に入れるために多くの争いを経験してきた。
個人レベルでの些細な争いから、国家・世界に及ぶ大きな争い。
しかし、それらの殆ど総てが自らの利益の為であり、その利益で手に入る平和の為である。
当然のことだが、ふたつの者がひとつの物を求めれば、得られる者と得られぬ者に分けられる。

争いは何も生まないというのは嘘である。
争いが治まった処には沢山のものが残る。
勝者のもとには地位や名誉、人や土地、道具などの求めていた利益が残るだろうし、逆に敗者のもとには、敗者という醜いレッテルと敗北という屈辱感。ややもすればそれすらも残らず、丸々過去の歴史となってしまうかも知れない。
どちらにせよ、多大な被害と犠牲が残ることは確実であるが。


さて、前置きはこの程度にして今日の本題に入ろう。

私たちが暮らしている社会は、あくまで相対的ではあるが平和だと言えるだろう。
しかしその目を少し離して見れば、世界では今なお、我々のごく近い地域ででも争いは絶えない。
それは土地だったり政権だったり金だったりを奪い合う争いなわけだが、やはりこれらも、“総ては平和の為に”であり“総てはみんなの為に”なわけだ。
人間は皆、争わずに社会を保つことは出来ないのだ。

ところが今、その争いは姿を変えつつある。
否、変わりつつあるのは、正確には争いのベクトルとでも言うべきか。

今まで私たちは、いわば隣人たちと、各々が各地で争ってきた。
しかし、これからは違う。
私たちは、世界中の人間たちは今、たった一人の者と戦っている。
戦っていかなくてはならないのだ。

戦いは当事者同士は戦っていることに気づかないこともある。
当人が熱くなっている場合や、全く勘違いしている為など、状況は様々だが、後者の場合は特に質が悪い。
戦いの始まりがわからないということは、戦いの状況にも気づけず、戦いの戦略も見誤る。

我々にとっては残念な事だが、彼は強い。
そして気づかぬうちに進んでいた戦況は、非情に悪い。
さらに言えば、私たちは仲間割れが酷い。
この強大な敵に立ち向かう明確な手段を見出せぬまま、しかし未だにその大半が勘違いをしながら時を過ごしている。
この世界の全人類が力をあわせても敵うかどうかわからない、彼とともに。

私には、彼の声を聞く術は無いから、彼がどう思っているのかはわからない。
彼が何を思っているのかも、どうしたいのかも。
彼がこれを、戦っていると認識しているのかどうかも。

私は、恐らく人間だ。
しかしながら、どうしても人間の味方にはなれない。
どう頑張っても、人間の非は見つかっても彼の非は見当たらないのだ。
どちらかの非を探し、それを理由に相手を否定することは間違っているのかも知れない。
だが戦いとは最後には必ずどちらかが勝ち、どちらかが負けるのだ。必ず。
いつか決着がつくとき、私は人類こそ敗者となるべきだと思う。





膿は、出されるべきなのだ。