その涙には、この世のありとあらゆる幸福を呼び寄せる力があるという。








君は知っているか?
あの、青い空に浮かぶ白い煙が何故“雲”と呼ばれるかを。

君は考えたことがあるか?
いったい何故、道端の砂利の粒を“石”と呼ぶのかを。

雲が“雲”であるのは当然の事であり、
石が“石”であるのも当たり前だ。

しかし、その“当然”がどうして当然の形で私の前に在り得ているのか。
私の生まれる前から。そして、死してなお。

答えは簡単なこと。
それは我々人間が彼らを“雲”や“石”として認めているから。

彼らは認められることで彼らという存在を確立している。
しかし彼ら自身に進んで自分を保つ必要性は無い。

認めてくれる存在が近くに在れば、自分が“自分”として存在していられる。
“自分以外”無しに“自分”は存在しない。


所謂“自分探し”とは、つまりは“自分を認めてくれる人探し”なのかもしれない。






愛は無償の奉仕である。
と思っていたがどうやら違う。

愛情が求める見返りは

“わたしを認めてくれること”

私はあなたを愛することで、
私の愛をきいてくれるあなたが居てくれることで、
私はわたしでいられる。










どこまでも遠く、高い空の向こうには
一体どんな美しい風景が待っているのだろうか。