その涙には、この世のありとあらゆる幸福を呼び寄せる力があるという。
君は知っているか?
あの、青い空に浮かぶ白い煙が何故“雲”と呼ばれるかを。
君は考えたことがあるか?
いったい何故、道端の砂利の粒を“石”と呼ぶのかを。
雲が“雲”であるのは当然の事であり、
石が“石”であるのも当たり前だ。
しかし、その“当然”がどうして当然の形で私の前に在り得ているのか。
私の生まれる前から。そして、死してなお。
答えは簡単なこと。
それは我々人間が彼らを“雲”や“石”として認めているから。
彼らは認められることで彼らという存在を確立している。
しかし彼ら自身に進んで自分を保つ必要性は無い。
認めてくれる存在が近くに在れば、自分が“自分”として存在していられる。
“自分以外”無しに“自分”は存在しない。
所謂“自分探し”とは、つまりは“自分を認めてくれる人探し”なのかもしれない。
愛は無償の奉仕である。
と思っていたがどうやら違う。
愛情が求める見返りは
“わたしを認めてくれること”
私はあなたを愛することで、
私の愛をきいてくれるあなたが居てくれることで、
私はわたしでいられる。
どこまでも遠く、高い空の向こうには
一体どんな美しい風景が待っているのだろうか。
美しいものの向こうがいつも美しくあるとは限らない。
おぞましい秘密を覆うカモフラージュかもしれない。
愛をきいてくれる相手なんて、そうそう現れるもんじゃない。
受け取るのを無理強いすれば法にも触れかねない。
認めてくれる誰かがいるから自分を保てる。
じゃあその誰かがいなかったら?
今ここにいる私は何者なのか。
それともここには誰もいないのか。
そもそも、本当に他者無しに“自分”は在り得ないのか。
自分が自分に自信を持てたら、自分が自分を信じてやれたら、
はたして本当にそこまで他者を必要とするだろうか。
それに、全てのものが今の“与えられた呼び名”を気に入っているとは限らない。
最後に、
人形は泣かない