『人が想像し得る事に
実現出来ない事は無い』
現実が想像を創り
想像が現実を作る
想像は創造に似ている。
僕は今、意識だとか心だとか、そういったものに大きな興味を抱いています。
しかし同時に、それらの曖昧な姿に感じる疑いの念もまた膨らむ一方なのです。
意識や心などと言うものは、所詮は情報の入力と出力にすぎず、まるで自分が考えているかのようにしている言動も所謂ひとつの反応でしかないということはごく単純に考えられることではないでしょうか。
さて、想像というのは記憶と記憶の関連付けであり、記憶無くしては有り得ません。
となると完全なるオリジナルというのは有り得ない事になるのではないでしょうか。
他者の製作物を用いて作り出される物のオリジナリティーとは果たしてどういうことか、
自分の考えだと言い張るそれに、果たして他者の言葉も含まれていないと言い張れるのか、
こう考えてみると独創と謳うそれは、全くの継ぎ接ぎでしかないのではなかろうか。
なんとも独創というのは心許無い。
まるで人の心のような姿をしている。
不確定性原理と決定論、量子力学がわかれば何かが拓ける気がする。
しかしわからないんだからしゃーないわね。
言葉、記号と数字で宇宙を創ろうなんて崇高な考えはございません。
ただまあ、推理が現実とぴったり合致すると気持ちが良い。
予想の通りに事が運ぶと有り難い。
そして、自分の知り得ぬ世界をぼんやりと見られるのは実に素晴らしい。
僕は勉強する理由なんてのはそんなので十分だと思うのです。
体感として、知らなかったものを知るというのは、言い知れぬ心地良さを持っています。
ちなみに前述の独創云々は随分と昔に考えた話で、
当時今よりもっと子供だった僕は、その言い知れぬ不安と疎外感に堪え切れず1人の友人に打ち明けました。
友人は私をなだめるでもなく、打開策を出すでもなく、ただ1冊の本を差し出したのです。
結果としてそれが良案だったか否かはまだわかりませんが、それには実に驚くべき事が書いてあったのです。
それは僕を悩ませ苦しんでいる問題そのものが書かれていたのです。
それだけではなく、当時自分が考え空想し夢見ていた世界や思想構想が実に理論的に書き表されていたのです。
残念なことに、そこに明確な答が書かれていたわけではなかったのですが、そんなのは問題ではなかったのです。
その本が書かれたのは当時からしても10年以上前の事だったと記憶しています。
自分の苦悩の元凶や、オリジナリティー溢れる発見と信じていたそれを、遥か昔に考えていた人がいると思うとなんともいえない虚脱感に覆われてしまったのです。
同じ思考をした人間が居るという事は、つまり先に出たものがオリジナルとして受け入れられ、出遅れたものはその価値を無くしてしまう。
しかしながら私は、本を出版するほどの大きな味方がついたような心強さを感じたのです。
ところで私は、独創とは他人の製作物の組み合わせだとは思うのですが、その組み合わせた姿こそ独創だと思います。
心や意識というのも、反応の入力と出力の複雑な組み合わせで出来るものだと思うのです。
ということはつまり心はないのでしょうか?
しかしピンクのフワフワが身体のどこかに詰まっていたら…なんてそんな想像もしてしまうのです。
で、『人が想像し得る事に実現出来ない事は無い』という事は…
死ぬ前に1度は人の心に触れてみたいものです。
(*・Å・)/