『好きにやればいい』というのは過去を過去として認められて初めて言える言葉です。
過去というものが恐ろしくて振り返ることも出来ない私には、その言葉はあまりに残酷な言葉でした。
私はその恐怖に立ち向かう事が出来なかったのです。だから未来ある少年にまでその未来を摘み取るように、踏みにじるように、




ここから先はインクが滲んでいて読み取る事が出来ない。手紙の内容から察するに父とは師弟関係か何かだったのだろうか?
そもそもこの手紙(らしきもの)が挟んであったノートもずいぶんと古いもののようだ。父はこの手紙をいつ、どこで、そして誰から送られたのだろう。
脈絡のない単語の並んだこのノート中でこの手紙の挟んであったページは明らかに異質のものであった。
ここにこの手紙について、またこの手紙の差出人についての何かが隠されているのだろうか。




人生は否定である。
ああなりたい自分、こうなれない自分、ああなりたかった自分、こうなれなかった自分。比べてしまうから苦しく、比べてしまうから悩む。
望まず、憧れず、捨てて、諦めて、否定することで今という自分を保っていられる。
だから人は過去を懐かしむ。
否定されてきた過去という自分をいとおしく思うのである。

――ところで「いとおしい」という言葉をいま自然とかわいがり愛しく思うという意味で読み取ったであろうと思うが、この語を辞書で引くと可哀想に思うという意味がまずはじめに来ている。一説には「厭う」と同じ語源とも言われている。
さて、今の一文で私は一体どちらの意味に重きを置いてこの語を使ったかと疑問に感じるであろうが私はあえてその答をここには書かないことにする――

『君には未来への無限の可能性がある』
というのは過去から確定された今を生きる人間が他人に対して言う無責任極まりない発言であり、無限の可能性というのも過去と現在の位置関係から未来というものが限りなく確定された状況の人間が自分と他人との相対から錯覚する「限りなく無限に近い、可能性のように見えるもの」である。
現在から見て過去の可能性は「あったと言われればあったかも知れない」し、未来の可能性は「まだ訪れていないからわからない」のである。



中学校で国語を教えていた父は生前よく本を読んでいたそれはとてつもない量だったが、彼はそれらを飽きることもなく何度も読み返しそしてノートにメモとして遺していた。
おびただしい数の記憶の隙間に一通だけ挟まれたこの手紙に一体どんな思いが込められているのか、それを唯一知る父は私の居る部屋の隣で静寂に包まれている。