男はまだ空が四角いと思っていたような子供の時分から猫が好きだった。
あのふにゃりとやわらかいさわり心地も好きだったし、気付けば一日中眠っているという自由を体現しているような立ち振る舞いに憧れたりもした。また、こいと呼んでも来ないくせに喧嘩をした後の淋しい帰り道ではどこからともなく現れて慰めてくれる、その姿は堪らなく格好よかった。
あの質感といい生活リズムといい、猫の不思議さは少年を釘付けにしたが中でも食事風景については疑問が消えなかった。
少年には魚が喰えなかったのである。
煮ようが蒸そうが焼こうがあの口いっぱいに広がる生臭さと口いっぱいから水分を奪うぱさぱさ感はどんな魚を喰ってみても同じことだった。
そして何よりも許せなかったのが小骨だった。男はベジタリアンではなかったしこれからもそうなっていく予定はなかったので、動物の肉を喰らって生きていく以上生き物の骨とは出会わずにはいられない運命にあるのだが、それでも魚の小骨だけは他の生き物の骨とは一線を画するものであるに違いなかった。
男がこれほどまでに魚の小骨を嫌うようになったいきさつは不明である。しかし少年時代に猫がその小骨も厭わずに魚を喰らう姿を見て「なんともはや猫というものは実に優れた生き物だ」と感心した記憶があることから恐らくその頃にはもう小骨への恐怖心は確かなものとしてあったのだろう。
「こんなところで悪いね。でも味は確かだからさ、安心してよ」
先輩に紹介していただいているという立場でありながらこんなことを考えるのは失礼極まりないと頭ではわかっていながらも男は店に入ってから席に着くまでの僅かな間に何度かきちゃないと思ってしまったのは事実である。
「いえいえとんでもないですよ。でもいいんですか?本当にご馳走になっちゃって」
口ではそういいながらも内心はひやひやしていた。それはなにも普段一緒にいない先輩と膝を突きあわせているからではない。無論それも少なからず影響しているのだろうが彼の一番の心配の種は辺りをちょっと見回しただけでわかる。
「すごいだろう、ここの秋刀魚は絶品なのさ」
先輩に声を掛けられて初めて彼は、自分が「秋刀魚」と大きく書かれた張り紙を穴の開くほど凝視していたことに気付いた。
不意に声を掛けられ驚いて我に返った彼の前には吸い込まれるような先輩の笑顔だった。そこには一点の曇りもない。
極まりが悪くなって視線を下に落とすとそこにはいつの間にやら運ばれた秋刀魚の塩焼きがあった。
おいしいよ。とすすめてくれる先輩の笑顔に胃の辺りがずきんと痛む。
彼は仕方ないという思いと情けないという思いの中ざくざくと秋刀魚のみをほぐし始めた。
ざくざく、ざくざく、しかしいつまで経っても秋刀魚の小骨はなくならない。貴様ら何処までもぐりこんでおるのだ!と今にも叫びだしそうになったとき、先輩がふふっと笑った。
「キミは魚を食べるのが下手だね」
そういって先輩は彼の皿を手元に寄せると見事な箸捌きで彼の分の秋刀魚の小骨を取っていった。彼がいじくり倒したためにもう半分が粉と化していたがそんなことはたいした問題ではないようで、あっという間に秋刀魚の小骨は取り払われてしまった。
「キミ、魚嫌いでしょ?」
先輩を疑っていたわけではなかったが、まだ小骨が残っているのではないかと慎重になっていた彼はぎくりとしたが何とか返事をしようと試みた。
「先輩は、猫みたいですね」
自分でも何故こんなことを言ったのかわからなかった。たしかに、焼きたての秋刀魚をおいしそうにほふほふと食べる先輩の姿は猫のように見えなくもなかったが、それにしても突然すぎた。
先輩も突然の彼の言葉に一瞬と惑ったようだったがすぐに笑顔に戻り、
「へぇ、猫は好きなんだね」
と、問いかけるでもなく確認するでもなく、独り言とも思えないような口ぶりでそういった。
「先輩のおかげで秋刀魚も好きになりそうです」
秋刀魚だけだろうね、と微笑む先輩の横顔は恋人というよりは母のような、優しさに溢れた微笑だった。