携帯電話を落とした。
 その上を白い軽自動車が通った。赤いワゴン車だったかもしれない。どうという違いではない。
 赤いフレームの欠片が黒いアスファルトに映える。僕はそれを歩道の上からただ黙って見ている。
 なにも急ぐ必要はなかったのだ。携帯電話がポケットに入ったことを確認して。車が来ていないことを確認して。なんだったら少し先にある横断歩道を使ったってよかった。

 ふいに、なんだか全てがどうでもよくなった。
 これからどうしようかとか、考えるべきことはあるし正直不安でたまらなかったはずなのに、僕の身体はは言葉にし難い解放感みたいなものに包まれていた。
 取り返しのつかない状況に絶望してしまったのかもしれない。でも、どこかでこうなることを待っていたような気もする。
 夕日が沈んでゆく。
 今のこの世の中で本当に一人でいるということは難しい。たった一人で生きてゆくというのは不可能だと言ってもいい。
「でも」と僕の中の僕が言う。
 身体的に一人になることは不可能でも精神的に一人になることは可能かもしれない。

 自分で捨てる勇気はないから、誰かに捨ててもらうことを待っていた。
 これは自由ではない。解放でもない。
 なにか、と訊ねられればこれは「裏切り」である。
 僕は瞼を閉じ、青空を心に思い描く。吹き抜ける風を想像する。そこに立っている自分になる。
 持っていたものを失ったのか、失ったという現実を得たのか、それは単なる言葉遊びにすぎない。

 静かに深く息を吸う。吐いた息が白く濁る。
 確かな足取りで僕は家に帰る。
 住み慣れた我が家に帰るのは僕以外に誰もいない。
 僕のこの世界には僕以外に誰もいない。

 明日には、また日が昇る。