そろそろ寝ようということでトイレに行く。
行くと、ほとんど晩飯に食った時と代わり映えしないものだからつい在りし時の、皿に盛られていた姿を思い出す。
うっへきったねーの。などと思いながらさむいさむいトイレを後にする。
2月も終わるこの時期にも、まだ我が家のトイレはもはや外といっても差し支えないほどの寒さであり、さらに日も落ちきってしまっている今ぐらいだと凍りついてしまっていることもある。
なぜ、なぜ用を足す前に試しに流しておかなかったかと一瞬後悔もするが、まあそこは一人暮らしの強みとも言うべきか、少しくらいの間なら流さなくったってなんとかなるものなのだ。
汚いというのはわかる。不潔だという意見も大いに受け入れよう。この期に及んで水道代がどうだとか言うつまらぬ話をするつもりもない。だからというわけではないが、凍りついた水道管とその前で呆然とする僕の気持ちも汲んで欲しいのだ。
と、ひとしきり自分と見えない誰かに予防線を張ったうえで便器の横のノブに手をかける。
こういう時は勢いが大事だ。そっと静かにやってしまっては、ちょろちょろと水が便器の内側を流れるだけで、詰まっていない下水道を詰まらせてしまいかねない。
左様ならと(心の中で)一礼して別れを告げ、えいやっと水を流してしまう。どうやら水道管は無事だったらしい。
さてよかった。これでもう今晩はトイレに用事も無いのでさっさと出て行ってしまうことにする。
だいいち寒い。このトイレは寒すぎる。
白熱球の暖かく柔らかな明かり――によく似た色のLED電球を消してトイレの扉を閉め玄関の鍵がきちんと掛けられているのを確かめてから部屋に戻ると、白色の蛍光灯と敷きっぱなしの布団、片付けの行き届いていない部屋がさっきまでと同じ様にそこにあり、我が家ながら寂しい気持ちになる。
不意に、「他人の好きな本を貶すのは、他人の恋人を貶すのに似ている」という言葉を思いつく。
なるほど。人の好みはそれぞれだし、しかし誰もが認める美男美女というのもいる。また自慢の恋人というのは時に身近な誰かに披露してみたいというのもあるし、そういう恋人とはあまり近すぎず、かつ離れすぎないところにいつも一緒にいたいと思うところも似ている。
そして何より、自分の大切な恋人が、また同じく自分の大切な誰かに貶されているのを見ると、何とも言えずもどかしい気持ちになる。
いつもどうにも喩えようのなかった思いがうまいこと形になったような気がする。こういう時は本当に気分がいい。
忘れないうちにどこかへメモしておこう。しかしその前にとりあえず手を洗わなくては、と狭い台所へ行く途中でもう一つ思いつく。
恋する相手がころころ代わるように、好きな本というのも一冊だけには留まらない。読んだ相手もその時どきによって違う印象になるし、気分が乗らない時はちっとも読んでいられない。
しかし本当に好きな本となると、不思議といつでも好きな気がする。
いよいよ気分が乗ってきた。これは良い調子である。最近見ることなく、とうとう死んでしまったかと思っていた僕の頭が珍しく冴えているようだ。今ならこの手を流れるキンキンに冷えた水道水もほのかに温かく、祝福してくれているようだとさえ思える。
さて。手を拭い、これらをどうメモに残したものかと悩むが、改めて言うまでもない、実に幸福な悩みである。
台所の向かいにある風呂場の鏡を確かめるまでもない、今僕は薄気味悪い笑みを浮かべていることだろう。
それもまた良い。
へらへらにやにやしながら万年床の横の万年筆をおいた丸テーブルの縁に思いっきり膝をぶつける。
星が舞う。
声は出ない。
ほとんど座った姿勢であるのに立眩みがする。
手をつき横向きに倒れる。
打っていない方の足を上に、勢い良く倒れこんだものだから、先に布団に着地していた負傷済みの足に無傷の足がこれでもかと打ち付けられる。
泣きっ面に蜂である。
もういい。
もういいから。
どうだっていいし。
さっき思いついたこととか、別にメモした所で何かに使えるってわけでもないから。
無意味だから。
しかしこの膝の痛みは、たとえ無意味だったとしても、真実この上ないのである。
いたい。
すっごくいたいし。
やめてよ。
ばーか。

布団を被り、今がこの時と眠りに就くことにする。
先ほどの素晴らしい着想は、夢から醒めるその頃には、すっかり忘れ去られているであろうことは、想像に易い。
膝の痛みは、おそらく癒えていない。