「シュレディンガーの猫というのを知っているか」
「さあ、知らんな」
「そうか」
「おい」
「なんだ」
「説明しろよ」
「ふむ。いいだろう」
 歩川はベニヤの生徒椅子に深く腰掛け直し、ふうと深呼吸をひとつ吐いてから鹿爪らしく話し始めた。
「シュレディンガーの猫というのはだな、箱の中の猫が死んでいるのか生きているのかわからんのだ」
「だろうな。そんなことは誰にもわからん」
「いや、そうじゃないんだ。むしろ箱の中の猫は死んでいても生きていても正しい」
「どういうことだ」
「死んでいるかもしれないし生きているかもしれない猫は、箱を開ければどちらかの状態に定まる。定まる前の猫はどちらの状態でもあるということだ」
「猫が鳴いたらどうする」
「そういうのを無粋と言うんだ」
 もっとも。
 そんな説明をされなくとも光が波であり粒であるというような話は雑学程度には知っている。その他にもシュレディンガーをシュレーディンガーといったほうがよりおしゃれであるということも。
 いまさらすぎる感は否めない。
「雑学程度と謙遜していようが、そこまで知っていて何故シュレディンガーの猫についてだけは知らないと言う」
「すまん、実は知っていた」
「どうしてそんなつまらない嘘をつく」
「知らないふりをすれば君は説明しなければならなくなる」
「それで」
「僕と君は会話を続けねばならなくなる」
「それで」
「それだけだ」
「なるほど」
 得心したような、あるいは寝起きのような顔をした歩川が数瞬黙る。
 ゆったりとした放課後の沈黙を静かに吸い込んで、吐き出す。秋の匂いはしない。
「では」と、歩川が沈黙を押しのけて問いかける。
「私が説明を拒んだらどうする」
「説明するまで縋りつく」
 では。
「箱の中の猫が泣かなかったら?」
「いやというほど箱を揺するな」
「そうか」
 僕と歩川は席を立つ。
 椅子の背が机の縁に当たるまでしっかりと押し込む。
 そうか。
「それは良いな」