Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

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読んだ。




 嘘ですまだ読んでる途中です舞城王太郎の『みんな元気。』。

 とりあえず第一編『みんな元気。』は読んだ。
 薄っぺらくいえば、並行世界で可能性で選択可能で交換可能なんだから物語内での時間軸だって一筋である必要はないでしょ。だけどそもそも選択可能な選択肢なんていくらでもどうにでもなるよね。
 そんな感じ。

 読みながらぼんやり思ったのは国籍の話。
 家族は選べないし選ぶもんでもないだろう。たぶん。
 それってなんか国籍と似てない? 生まれるときに「おれ、こっちがいいっす」とか言って選ぶわけにはいかない割に、上手いことやると「日本代表!」とかいって持ち上げられるし周りの人間も何の疑いもなくただ国籍が一緒なだけの手の温度も知らない赤の他人をあっさり心から応援したりする。それでいてそいつが悪さしたらく「国の恥」なわけだ。
 一緒です。自分じゃ選べないです。
 でも、それを「選んじゃ駄目」っていうのはどうなんだろう。ホントにそうなの? そうかもね。いや、そうなんだと思うよ。
 ただ知っているべき。いろんな物を、事を。

 よく分からないです。
 何がよく分からないって、僕はSF畑の人間じゃないからこれを「並行世界モノ」と呼んでいいのかどうかも分からないし、法律に関しては土下座しながらビール飲めっていうくらいの無知だし、文芸も文学も知らないし、そもそも舞城王太郎の著書だって半分も読んでないから、もう「なにも知らない」って言ってもいいんじゃないかっていうくらいによく分かってない。(そして恥ずかしい告白をするとラストの父ちゃんは一体なんだったのかさっぱり分かっていない)
 この辺はたぶん舞城王太郎の評論とかをもっと読めばいろいろと分かってくるんだろうけど、正直そんな気分じゃない。読了後の余韻に浸りたいとかそういうんじゃなくて単純に疲れているからです。
 こういうのの解釈とか、そんな大層なもんじゃなくても読書感想でもいいからいろんな意見を聞きたい! そういう友達が欲しい! でもまわりに居ないんだよなぁ、舞城ファンの友人……って書こうと思ったがそもそも俺に友達なんかいたっけ? という反証不可能な命題が浮上するが疲れているので華麗にスルー。そしてこのエントリも華麗にスルー。スルー・ザ・ルッキング・グラス。

 ……こういうこと書いて「オレちょっと舞城っぽくね?」とかニヤニヤ他人の目を気にしながら自慰行為に耽るガキは嫌いです。



 以上、華麗なるコピペ日記でした。

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とても簡単なこと。



(1)

 管弦楽はもう平気っぽいです。
 弦アンサンブル系も大丈夫みたいです。
 ビックバンドジャズはもともとそんなに好きじゃなかったので分かりませんが、まあなんとか聴くことは出来るみたいです。
 サキソフォンのソロ楽曲はかなり辛いです。ギリギリアウト、という感じ。
 同アンサンブルは意外にも平気です。ちゃんと音楽を聞いて感動できるくらいに。しかしフラッシュバックにはまだ襲われます。
 吹奏楽曲は完全にダメです。テレビでかすかに流れても反応してしまいます。今までの、自分の領分のものに対するような反応ではなく、違和感というか、言いたくはありませんが微かな嫌悪感のようなものが、まだ確実に残っています。

 間違いの種を植えたのは僕であり、それらに対してまっとうな対処を怠ってきたのも僕自身。僕は僕に対して罪を犯し、そのために僕は僕に償わねばならないのです。
 僕は過ち、僕を不幸にした。だから僕は努め、僕を幸福にしなくてはならないのです。

 これは自省ではありません。
 これは逃亡ではありません。
 これは後悔ではありません。
 これは謝罪ではありません。
 これは請罪ではありません。
 これは償いではありません。
 これは諦めではありません。
 これは希望です。
 これは決意です。
 
 僕が僕の中に見つけたものは、
  後悔と、
   絶望と、
    諦めと、
     使命と、
      目標と、
       目的でした。

 あとは、勇気と、努力だけです。
 とてもとても、簡単なことです。




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哲学のSF


 人間が哲学をするのは、それは世界に向けての愛である。
 自分に見えているすべてを理解し、自分自身を理解しようとする。
 愛智。それが人間の持つ確かな本能なのだ。

 しかし考えたことはないだろうか。多くの人間たちがどうしてこんな、何のためにもならないものを追い求めてきたのかと。
 愛を持つことがよい。
 真理を知ることがよい。
 はたしてそうなのだろうか。だがそうするよりほかないのだ。愛すること、求めること、成長することこそが生きているということであり、生きてゆくということなのだから。
 そうやって自分を追いつめて束縛するのをやめれば人間は簡単に死ぬ。
 そして死ぬのは嫌だというのが生物としての本能だろう。ということになっているから、人間は哲学をする。

 いいや、違う。と僕は仮定する。
 死にたくないから哲学をするのではなくて、哲学をし続けるために死にたくないと活動し続ける思考構造を持って生まれてきたのではないだろうか、と。
 持って生まれてきたとはどういうことか。それは与えられて生まれてきたとも言えるのではないか。

 僕は言う、哲学は愛の行為だ。
 僕は問う、哲学で何を得るのか。

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Mr.child


ミスチルを聴くと中学時代を思い出す。

特にアルバム「シフクノオト」は僕の記憶のど真ん中に座っていて、僕はそれを退けることもできないんだ。

僕の記憶の時間の中の「それら」を退けられないのは、
「それら」があまりにも強い記憶だから、というわけではなくて。
「それら」があまりにも大きな存在だから、というわけでもなくて。

僕の記憶の時間の中の「それら」を退けられないのは、

そもそも僕は「それら」を見つめる事ができからなんだ。


「それら」を核とする中学時代の僕の記憶

振返るとどうだろう、楽しくて、明るくて、眩しくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、辛くて、苦しくて、、、

何の不安も反省も気兼ねもなく「それら」を「今の僕」が楽しめるようになるために、幸せに過去を振返られるようになるために僕は何かしなきゃいけないのだろうけど、そもそも「今の僕」は「それら」に立ち向かうことも出来ずにいるんだ。



中学の時の同級生・先輩・後輩・先生その他沢山の人々に対して僕は罪の意識を感じているんだ。「反省している」では済まないくらいに。
今は立ち向かう勇気すら無い状態。


ミスチルを引き金に僕はとうに過ぎ去った中学時代
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じゃがいもの芽は想像の斜め上をゆく気持ち悪さ


 沈黙は金、雄弁は銀とは言いますが、あまり長いこと黙っていては僕は死んだと言うことになってしまいかねませんのでここいらでいっちょ更新しようかと思います。そもそもそんなことは誰も気にしていないと言うのは、誰より僕が理解しています。ご心配なさらぬよう。
「ネット環境が整ったら更新しよう」と決めていたものの、実際は生活環境の方が追いつかずご覧の有様です。
 気づかぬうちに(気づかないように目を背けているうちに)いとおかしき3月も終わろうとしています。あいも変わらず僕は…って引越しをしたことは書いたのだったろうか、まあ、薄暗い部屋の片隅で小さく本を読んでいるということに何らの変化もありません。

 先日は祖父の七回忌で、日が経つのは早いなあとかやっぱり僕はおじいちゃん子だったなあとか、早朝(AM11:00)のぼんやりとした思考で故人を偲んでいたりしたのですが、不意に親戚からかけられた「新居はどうだい、何をしているんだい」という言葉に僕は答えられずに居てしまうのです。
 実はその親戚の方と言うのが現在の僕の住まいの大家さんその人であり「いやあ、まあ、特に何も…」というなんだかわからないもやもやした解答は喉元で止めておくことが好ましいことは言うまでもなく、僕にとっても相手にとっても。
 しかたがないので僕はねばつく嫌な臭いのする口でかろうじて「日がな本を読んでゐる」と答えたところで閉口してしまったのであります。

 こういう陰気というか不真面目というか不摂生というか怠惰なところは全く嫌なもので、これだからたまに(ごくたまに!)連絡を取り合う友人にもまず第一声から「生きているのか」とか言われてしまうのです。
 そういうふうに訊かれたとき、僕がいつもどういうふうに返しているかは最後に訊かれたのがもうずいぶんと前のことだったので覚えていませんが「死んでいるよ」と応えたい、というのが本心です。
 より正確に言えば「死んでいた」と言うべきなのかもしれません。ただまあ文字だけのやりとりであるメールなんかのその程度なら、どちらもたいして変りないのです。
 僕たちは緩やかに死んでいます。それは紛う事無き事実です。しかし意識世界の中で考えたときどうでしょう、誰にも伝わることの無い僕という存在は果たしてそこに生きているでしょうか。
 在るか無いかで訊かれれば、僕は今ここにこうして存在しています。しかし僕のことを知らない、僕も知らないどこかの誰かの中では僕は死んでいるのと同列です。僕の知らないあなたの友人が僕の見ている世界でも同様に生きているとどうして言えるでしょうか。

 仏壇の前に座って手を合わせたところでおじいちゃんはそこにはいないけれど、僕の中の小さな世界の中にまだ生きているわけです。

 僕は、生きていますか?



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僕の気持ちもいつかはきえるんだよ

ブログネタ
あなたの「ひな祭り」を教えてください に参加中!
世の人々がひな祭りにわいていた頃、僕はmixiでどーでもいい屑日記を書いていました。
この場所で屑呼ばわりする日記なのですから本当に屑です。

しかしそれは普段の話で。
今日も糞みたいな内容の日記を書いていたら、どうやら題材が良かったらしく話は膨らみ盛り上がってしまったのです。
しかし残念ながら文字数が足りず、泣く泣く大幅カット。

一つの勘違い諺から始まったそのお話はそれを事実ではなく妄想から新たな解釈をしました。するとそこに新たな概念が!道具の身体理解という概念です。
僕は基の諺に新解釈と新概念を絡めてまとめようと試みましたが・・・・(´・ω・`)

それでも、一応らしくまとまったので見られたらmixiの方も読んでみて下さい。
思いのほか綺麗に読みやすくまとめられたと思います。

ノーカットは少しずつ削りながら書いたので無理ですが、リビルドかリバイバルかリユニオン版ならだせますかもです。


・・・・つってだれか読むんだろうか。

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好意と行動


好きだからって人にグイグイ行くのはやめよう。

好きな人にど真ん中一直線だったり、
やたらとコメントつけたりするのは自重。

見知らぬ赤の他人からガンガンこられてもウザいしキモいよね
そう思う人もいるよね。


自重しよう。




でも、僕自身は本当はそういう風にされたいです。すごくグイグイ話しかけて欲しいです。ガンガンアプローチかけて欲しいです。


されて嫌な事は相手も嫌だからするな。

でも、

して欲しい事が相手は嫌だった。

って事もよくある話で。





もうわからないから、
ひとまず自分は他人に自重します。


以上。
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全くもって困ったことに、

 全くもって困ったことに、

 森見登美彦氏の『四畳半神話大系』のアニメ化が着々と進んでいるらしい。
 これ自体はさして困ったことではない。むしろ喜ぶべきことである。アニメ万歳!
 放送枠がノイタミナ枠なので、おそらく自分が観られるのは夏頃なんじゃないかと、若干の切なさはあるものの、いやはや映像となって観られるという喜びにはかないませんね。
 キャラクター原案はカバーイラストもなさった中村佑介さんで、あの女性的な柔らかくなめらかな線が、マッドハウスによるアニメーション制作でどううごくのか!というのも楽しみです。

 と、ところでこの情報、森見氏のブログを欠かさず読んでいる優秀な読者ならば昨年末の時点で既知の事実であったわけだが、何故に今更のPick Upなのか、と問われればそれは簡単なことで、まあ説明するよりは実際に見て貰った方が早いだろう。


 ということで公式サイトのリンク
  四畳半神話大系


・・・おわかりいただけただろうか・・・

 そう、ヒロインである「明石さん」についてだ。
 この作品の主人公は四畳半をこの世の全とし、恋に幸せに現を抜かす悪逆どもに正義の鉄槌を食らわす勇敢なるGentlemanであり、明石さんはその主人公のあまりの男らしさにひと目で恋に落ちる“黒髪の乙女”であるからして、彼女がヒロインでありウェブサイトのトップページを飾っているのだとみてまず間違いないだろう。

――二次創作的説明はここまでにして――


 さてここに困ったことがある。
 まず、明石さんの設定だが、現在てもとに(全く失礼なことに)確認出来る資料が無いので詳しく説明はできないのだが、「確か黒髪な乙女なんじゃなかったけなぁ」と記憶している。また、彼女の言動から、非常に理知的なクールビューティであるとの印象を受けた。
 ここから私は明石さんは長いストレートの黒髪にスレンダーなボディを想像していた。

 そんなヒロイン像を想像していたもんだから公式サイトをみて「いやまたこりゃどうしたもんでしょう」と驚いたのだ。
 しかしまあ書いてある部分ならまだしも書いていないフォルムについてはいくらでも想像出来るわけで、原作のある作品ならばよくある事。驚いたは驚いたが「困る」とまではいかない。
 さて、長い長い前置きはここまでに。
 なにがここまで私を困らせるかと言うと、先程のウェブサイトの明石さんに注目して欲しい。(忘れてしまったかもしれないので→サイトにて明石さんを確認する
 左目の下、あなたには見えるだろうか。目の下の黒い点、泣きぼくろである。
 そしてこの髪、黒髪であることは間違いないが、明らかにくせっ毛である。
 これは実に大問題である! 全くもって困ったことだ!


 果てしない助走の末に私が言いたいことは2つ。

「黒髪っていいよね! 泣きぼくろは素晴らしいね! くせっ毛は良い武器!」

 【色の白いは七難隠す】と言いますが、明石さんはそこに
《知的・クール・黒髪・泣きぼくろ・くせっ毛・蛾が苦手・「ぎょええええ」・そして色白》
 という要素を兼ね備えている。そしてこれらは(東浩紀の言葉を借りるのならば)僕の求める“萌え要素”とことごとくかぶるのです。
 あとはどんな声がつくのかが楽しみでしかたない。
とか言いつつ頭にはあの人の声しか聞こえないという・・・

 という愛に満ちてホンワカしたところで僕は帰ります。
 道外のの「フジテレビノイタミナ枠」をリアルタイムで視聴出来る皆さんが羨ましい!

まとめ

 黒髪色白に左目尻の泣きぼくろでくせっ毛ときたらもう!(しかも背も低かったはず)
 そしてそそこにたまにドジしてしまったり予想外に昆虫がダメだったりするクールビューティーなんて要素が加わった日には!
 



先生、僕はどうすれば良いでしょう・・・

  

どうにもなりません




全くもって困ったことに、






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森見登美彦と僕


 私が登美彦氏に出会ったのは忘れもしない昨年のことです。
 新緑、若葉生い茂る頃・・・いや、夏の暑い頃だったかな? 秋口の夕日が綺麗な日だったような気もしてきたぞ。いやいや、もう秋も深まって冬が見えた頃だったかしら・・・まあ、僕が彼の本に出会ったのは2009年の、実に素晴らしい日のことだったのです。
 僕は「本」と言えば小説であり、小説と言ってもハードカバーで新刊をガツガツ読み漁るのではなく、文庫本をちまちまとベッドやトイレでダラダラと読んでいる、そんなライトブックユーザー・小さな本の虫なので、某書店にてのんべんだらりと特にコレという特定の目的商品も求めずに「あ〜ん」まで整然と並んでいる本棚を「あ〜ん」までのべつまくなし引っ掻き回して歩きまわるというのはよくあることで「時間と体力があればいつまででも本屋にいられる、いいえ、住んだっていいくらいなんだから」と言っている割にはたいしたことの無い読書量の僕は2週目の「あ〜ん」のま行の棚の最後の方にまだ作品数も世間の評価もイマイチだとその某書店で評価された作家達が肩身狭そうに押し込められたあたりに、一冊の、ちいさな、しかし力強く輝く、なんとも可愛らしいその本を見つけたのです。
 今でこそどこの書店でも(そう!どこの書店でも!)他の作家と間仕切りで分けられたやすく見つけることのできる氏の著作ですが、そのころはまだ、少なくとも僕の地元では、奥ゆかしく棚の隅にちょこんと座っている程度でした。
 題名からしてリズム感のいい「ソレ」はすんなりと、全くなんの淀みもなく僕の手にすっぽりと収まり「さてそこのおにいさん、ひとつ私を読んでみてはいかがかしら?」とつぶやきかけるのです。
 そんなことより表紙の絵の可愛らしさにすっかりメロメロに打ちのめされた僕は、半ば意識を失ったまま、ほとんどその本を買うつもりで、ゆっくりとページを繰りました。「いかにパッケージが可愛くとも表紙買いはしてはならない」過去の大きな失敗からそのことを肝に銘じていた僕は、こんなに可愛い表紙でつまらないはずが無いと決め込んでいる自分を批判しつつ最初の2,3行を読んでみることにしたのです。
 果たして僕は彼女とレジへ連れ立ったのでした。
 題名に溢れるリズム感は確かなものでそれは本文にも遺憾なくはっきされており、内容の方も「これでは紙からこぼれてしまうのではないか!」といらぬ心配をしてしまうほどに濃厚なものでした。濃厚と言っても後味の良いもので、若干の汗臭さと類稀なる言葉遣いの強烈さは残るものの、なんだか晴れやかな、それでいてこの世のすべてのものが愛しく思えてしまう、そんな読後感に包まれていました。

 読み終えてからしばらく、僕はものを考えることができずにいました。
 作品を強く気に入った為、というのもあるかも知れません。しかし僕は打ちのめされてしまったのです。完膚なきまでに、打ちのめされてしまったのです。
 相手はプロです。負けて当然とも言えます。
 僕は新しい本に出会えたという喜びと共に恐ろしい絶望を感じていました。
 世の中にはこんなにも面白い本を書く人間がいる。
 僕には一生かかっても書けないような面白い本を書いている。
 逃げ出したくなるような巨大な絶望でした。
 しかし僕はまた森見登美彦氏の本を手にとってしまうのです。
 それは本の魔力なのかも知れません。
 もしくは負けたくない、僕もいつかこんな本を書きたいという強い熱が氏の本で、時間をかけて膨らんだのかも知れません。
 或いはそれこそが本の魔力なのかも知れません。


 あなたにも、本の魔力のあらんことを。



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これはひょっとしたら好きなヒトができたとかいうようなそういうアレかもしれん


 小学2年生以来ずっと会ってなかった友達に会った。
 友達っていうか女の子。それはもう優しくてかわいい女の子。

 保育園から小学2年生まで、というのは引越・転校の連続の中ではおそらく最長期間、同じ人間と日々を過ごした時期でした。
 その頃僕は好きな人がいてーーと言っても子供の言う「好き」ですがーーその子はちょっと舌っ足らずな感じの可愛らしい子。
 あまりはっきりとは憶えていないんだけど、多分幼稚園のあたりからずっと、転校するその日まで好きだったんじゃないかなあと思う。
 転校する日が間近に迫ったある日の夜、僕は夢をみたのです。
 友達と離れるのが淋しいという夢。この美しい町を離れるのが淋しいという夢。
 皆との楽しい未来の想い出がつくれなくなる切なさ。この町の変化を見てゆけないという切なさ。
 それが人生初めての転校だったからでしょう、僕の淋しい、悲しい、苦しい、夢とも現ともつかない僕の意識は一晩中続きました。
 そして最後には女の子が一人現れるということを僕は最初からわかっていました。なぜなら僕はそのこのことが好きだったはずだから。
 頭までかぶった布団の隙間から朝日と思しき冷たい青白い光が仕込んできていました。
 朦朧とする意識の中、僕は一人の少女を見つけました。
 それは後ろ姿でした。後ろ姿でも、僕にはそれが誰だかはっきりと分かりました。ただその人が、予想していたのとは違う人だったので少し驚きました。
 少女は僕の記憶によってデフォルメされた小さな家の前に立っているだけで、決してこちらを向いてはくれませんでした。僕は少し離れたところで少女の背中を見つめて立っています。ただ立っているだけなのに何故だか彼女との距離はどんどん離れて行ます。
 僕は小さくなった彼女を見つめ、大きな声を出して泣きました。
 僕はこの時初めて悟ったのです。僕はこの人の事が好きだったのだと。

 小2ぶりに会った女の子に対して僕が持っている一番美しい思い出といえば、「掛け算の九九を暗算する」という小試験みたいなものに関するものでしょう。
 そのころから既に愚図で鈍間だった僕は、いつも七の段でつっかかってしまい、放課後まで残って九九を唱え続けていたのです。
 しかし、小試験というだけあって合格するには同級生の児童に試験官になってもらう必要があるのです。その子から合格印をいただけなければ僕はいつまでもこの教室から家に帰れないのです。
 そしてその日、僕の九九試験の教官をしてくれたのがそのものズバリ件の女の子だったのです。
 彼女は明るく元気な実に素晴らしい女子小学生! といった感じで、現にこうして僕のような路傍の石の如き人間に放課後まで付き合ってくれているということからもその溢れんばかりの優しさを感じるには十分です。
 僕はこの子ではない別の女の子に恋心を抱いていました。

 夢に現れたのは少女のままの姿でした。当然です、僕にはその頃の記憶しかないのですから。僕と同い年にしては幼い彼女は、僕の希望的観測に基づいてほのかに大人っぽさのようなものを醸し出していました。
 あのとき僕を支えてくれた笑顔はそのままです。
 変わらない優しい笑顔にほっとした僕は、彼女がいったいどうしてここにいるのか聞いてみることにしました。しかし彼女は相変わらず微笑みかけるだけで答えようとも、喋ろうとすらしてくれません。
 何か悪い言い方をしてしまったのだろうか。気に障るようなことをいってしまったのだろうか。
 狼狽える僕を彼女は笑顔のまま見つめています。
 違う。いいんだ、このままで。
 僕がいて、彼女がいて。
 あの時と同じ、僕を支えてくれる笑顔がそこにある。
 ただそれだけで幸せ。

 僕はここ数年、寝起きに問題を抱えていたが、その日はすっきりと目覚めることができた。
 理由はわかっている。はっきりしている。



 僕はその日、恋をした。




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読書感想雑記


面白くない本を読む、と言う作業は非常に苦痛です。
それが教科書や学術書などの所謂“タメになる本”というのであればそこには苦痛の先に大きな知識が待っているはずです。そしてその僅かな希望にかけて私は「つまらんつまらん」と言いながらも本を読むのです。
しかしそれが小説・創作の世界ではどうなのでしょうか?
身に着くものなどは殆どありません。創作物に求められるのは面白さと意欲です。
面白くないとは、創作物に求めるものがない、あるいは求めても返答がないということです。意欲は読後に現われるものです。面白くないとはっきりした時点でさらに意欲の増進効果を期待したところで結果は既にわかりきったものです。


生活の知恵じゃなく、テストに向うべき学力でもなく、面白さと意欲を与えるのが小説等創作物としての本なのです。
読者の裏をかく面白さ。見事に痒い所に手の届く面白さ。リズミカルにスピーディーに展開し畳み掛ける面白さ。綿密な設定とそれを見事に乗りこなし使いこなす面白さ。分かり易さの面白さ、分かり難さの面白さ。そしてやはりキャラクターの魅力という点での面白さ。
すべてが揃っていないと絶対面白くない、とは過言ですが(勿論上記に示したもの以外にも小説の面白さのエッセンスは沢山ありますし)、少なくとも上記の幾つかで足りない分を補い合う必要があります。

ストーリー展開の演出
キャラクターの個性的魅力
なにより書き手のセンスと知識と知恵これか非常に重要です。
センスは言葉選びだったり言葉遣いだったり台詞回しだったりもするのですが、このセンスは先天的才能でありどうにもならないというのが定論ですが、私はそうは思いません。
ここでいうセンス、そしてそのセンスが影響しているであろう小説の構成要素は後天的な事でどうとでもなるのです
それは、人間関係です。
台詞やキャラ自身の性格は作者及びその近辺の人間から多く影響されます。人間関係が薄弱で生きて来た作者の小説にはそれが明らかに足りない。面白い伏線の張り方やトリックは知識として、本を読めば身に着きます。
しかし登場人物自身やその人間関係は体感するというのがもっとも強く、わかりやすく身に着きます。そうするより他に無いとも言えるかも知れませんが。
ペラッペラの関係から面白いという感想は出ません。
「何かしたい!」と強く心動かされるような本は、いつも面白いものです。



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悔悟



言葉にすると、殊に文字なんかにすると後々にまで遺ってしまうのが嬉しくもあり辛くもありますね。

私なんかのようなチンケな者が書いた文でも、今の世の中では誰もが見られる環境におかれる場合があります。
そしてそれがそれなりに長い期間晒され続ける・・・

自分のすぐ身の回りならまだよかった。しかし他人様の持ち物となると如何ともしがたい。
なんだかもうごめんなさいとしか言えない私という存在。
悲しくなってきた。




改めて

俺ってキモいと

確かめた

思いよ届け!

届くな醜男!




いとせつなし...

否、愛ゆえに!ただ愛ゆえに!


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今日




ハッピーバースデーオレ




ハッピーちゃうわ。



おやすみなさい。



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メール


石橋を叩いて避ける
こんばんは、僕です。

あついのは苦手です。
まだ七夕が過ぎたばかりだというのに、
僕はもう溶けそうです。

っていうか部屋と廊下の温度が違いすぎる。
なんとかならないのかこのつくり。


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人生楽しんだもの勝ち。


人生の基本ラインをプラスに置けば、
きっとその人生は素敵なものになるのだろう。




基本的に頭の悪いタイプのマイナス思考な僕は、
その『人生を楽しむ』ってのをストレートにできないのです。

不真面目なのを悔いているなら真面目になればいいだけなのに、
それもせずにいつも後ろを見ている僕は何とも頭の悪いマイナス思考なのです。

石橋を叩いて壊す以前に、それを渡ろうともしないような情けない僕なのです。

僕は、僕には感謝してもしきれないような人がたくさんいる。
そしてその感謝の気持ちを何としても伝えなくてはならない人がいる。
それは、本当はもっと早く言いたかったのだけれど、結局言えたのはその日だった。
それも何とも遠くからの。

僕らしいといえば僕らしいけれど、やっぱり情けない。
そんな意気地なさの権化のような僕を、
見捨てず、見限らず、それどころか励ましてくれた、
気遣いにしたって勿体ない、
いったい何回転生して徳を積めば僕は追いつけるのか、

なんて事は言いません。

それよりも、
あんな素晴らしい人から得たものを自分の力にして、
今度は自分がどうするか。
という、プラスに自分を置いてゆけたら
と、思うのです。


ごめんなさいと、それ以上のありがとうを伝えられたので、
ひとまずはよかったかな。

謝罪<感謝≦尊敬


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カテゴリ: じぶん  きをく