Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

カテゴリ:こころ

僕と私――観念的セカイ系



  第一章

「幸せなんてない。でしょ? 言いたいことはわかってるよ。知ってる」

 僕はこの子の身長の割にはハスキーな声が好きだ。
 重たくがさついた低いそれだけの声ではなくて、柔らかく沁みいるような温かい声が、彼女の声が好きだ。


 彼女は僕に謂う。同じことを何度も謂う。
 彼女は同じことを何度も繰り返している事を自覚している。
 僕は何度も何度も彼女の話を聞く。僕は何度も何度も聴いても理解出来ない。

 彼女は僕に謂う。同じことを何度も謂う。僕は喜んで聞く。
 彼女は僕に謂う。同じことを何度も謂う。僕は嬉しい。
 僕は同じ話を何度も聞く。彼女の言葉を何度も聞く。彼女のいとおしい声を何度も聞く。

 僕が不安になる。繰り返すことが嫌になってはいないかと不安になる。
 彼女は僕に笑いかける。彼女は僕に呆れた顔をせず僕と笑う。彼女の笑顔に僕も笑う。
 僕は安心する。彼女は笑顔で僕を受け入れてくれている。出来の悪い僕を笑顔で赦し受け入れてくれる。

 僕は、そして僕と彼女は、幸せなのかもしれない
続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  こころ 

愛と愛と愛の愛の話。






 セドリックが私に言う。このままではいけないと。

 私はセドリックに言う。夢はここに確かにあると。





 目の前の石がどうして石と呼ばれているのか不思議なのだと彼女は言う。いつも僕に見せてくれる温かさを持った笑顔で彼女は言う。

 空に浮かぶ雲がどうして雲と呼ばれているのかについて僕たちは考える。幸せという形のないものを噛み締めながら僕たちは考える。

 僕を乗せて走る地球が球であることの不思議と感傷的な孤独感に気づく。僕を包む空に終わりがないという絶望的な全能感に震える。

 僕は球の外側にいる。 僕は球の内側にいる。
 君は球の外側にいる。 君は球の内側にいる。

 世界は常に僕の外の何処かに在って、僕は常に世界の中の何処かに居る。





 私にセドリックが円を書く。僕は君の外にいると嘆く。

 私はセドリックの円を指す。円の外は中になると叫ぶ。





 彼女を抱きしめるとそこには愛があった。
 愛は彼女の匂いがした。彼女は愛の匂いがした。

 抱きしめられた彼女は愛を受け取った。
 愛は彼女の匂いではないと言った。彼女は愛ではないと言った。

 確かなことは、愛が今そこにあるということ。
 確かなことは、彼女が愛ではないということ。

 愛こそが全てだ。 しかし部分に過ぎない。
 全ては愛なのだ。 だが部分が総体を作る。

 一瞬の間に百億の愛がそこら中に生まれ、百億の愛が初めからそこら中に在った。





 私を見ているセドリックを私は見ている姿がここにある。

 だから私とセドリックはここにいる。

 それはつまり私とセドリックの愛がここにあるということ。

 私たちは愛を生み愛を抱き愛に包まれ愛によって愛となり愛になる。





kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  こころ 

少し、気になったんだ。

堂々としてるね。

別に「悪」とは言わない。
それで良い。或いはそっちの方が良い場合もあるくらい。
しかしまあ、うーん、どうなんだろう。TV番組での整形ってのは。
「素人ならいいの?」
それも心からどうぞとは思わないけど、彼女(彼)らはやはり「TVに出る」「TVで(自らの)顔を晒す」という大きな決意と強い勇気の先にいる。

TVに出てて、チャンスがあって、まぁせっかくだから・・・・否、TVで見た彼女そんな軽い感じではなく。涙で瞳が潤む場面もあり、御自身のスッピンや苦労話を語っていた。

結果から言えば彼女は整形した。僕の好みではありませんが、整った綺麗な顔になったんじゃないかな?と。
僕は、彼女についてのみ言えば彼女が幸せならそれでいい。更に言えば幸せにならなきゃいけない。失ったものはとても大きいはずだから、絶対に幸せにならなくてはならないのだ。


と本人についてはそんなもので、僕が疑問に思ったのは
「軽くないか」
と。

ジム.エステ.ネイル.メイク.ダイエット.減量.etc.
身体を美しくするため多くの現代人は様々な人員や道具を利用している。

美しくなる事は素晴らしい。
努力をする事は素晴らしい。
諦めない事は素晴らしい。

美の追究、尊敬すべき力だ。

ところで、

僕は痛いのが嫌いだ。(その上もったいない主義である)ピアスは大嫌い。ピアスは痛い上、身体に傷を付ける。

メイクやドレスアップに身体トレーニングそしてピアス。身体に手を加え、姿形を変える。

それらが果たして“整形”と何が違うのか。


『母親から貰った』とか『神様に頂いた』とか言われようが正直そんなのどうでも良くて。

[私]は此所に居る。
[私]は他の誰でもない[私]だけ。
何処の誰の目にも[私]だけ。
変わりの[私]はいない。
[私]は此所に居る。

何処の誰が授けたかわからないこの[私]、僕はそれを《簡単に》傷付けるのは嫌だ。
だってもったいない。


僕はTVが好き。毎日観る。しかしその影響力も考えなくてはならない。それが視聴者に、
「それなら私も整形したい」
と言わせるのか?言わせていいのか?

僕は美容整形は危うい領域だ。
もっと恐怖を感じてみるべきである。
罪悪感を感じてみるべきである。

kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ 

最近のTV番組の内容の進展についての考察と、その未来への予想と提示。


2000年代に入った頃からだったろうか、健康志向のTV番組が加熱し始めたのは。
これを食べれば血がサラサラになるだとか脂肪の燃焼を助けるのはこれだとか、放送された次の日にはそれらの商品が無くなるという社会現象まで巻き起こした。
僕はそもそもそれらのTV番組が提供する「健康志向」というものに疑問をいだいていた。というより、情報の多くが「なんか胡散臭い」と思えてしかたなかった。

それから流行ったのは雑学ブームだろう。
これはおそらく、たんに「健康に対する雑学」が「日常のいろいろなことに対する雑学」に姿を変えただけに思う。
雑学を知っていると話題が広がるとかいうのもブームになった要因にあるのかも知れない。

それの少しあと、ブームになったのは「脳科学」というジャンルである。
正直初めは期待した。脳というまだ未開の地に多くの人が目を向けるということ、なによりそれらをTVというメディアで知ることができるという期待があった。
しかし実際には違った。期待していたような科学的なものではなく「今の脳科学での分野ではそういうことになっています」というなんとも押し付けがましいものでしかない。

TVというものは多くの人が見る。子供から、老人まで。そういうことからきっと、小難しい理論やシステムを正確に述べるよりも、ちょっと押し付けがましいようなもののほうが、無理やり感があってもわかりやすいし受け入れられやすいのだろう。
そういうものの方が“ウケる”のかも知れない。

ところで最近は教育関連の番組をよく目にする。
そういうものを僕が選んで見ているといえなくも無いが、それにしても「天才を育てるには」とか「子供にはこれがいい」とか、そんなのが少し前にくらべ多くなってきているような気がする。

僕はここで2つ思いついたことがある。
ひとつは知識の流れであり、もうひとつは見る層の流れである。

知識の流れというのは「なにを見ているか」に注目してみるとわかりやすい。
健康番組はお笑い番組などの娯楽番組に比べ意識が「自分自身」強く向いている。自分は健康であるか、どうすれば健康になれるか、などと言った具合に。
次に現れた雑学ブームは今度は外を向いている。知っていることの優位性を感じていたのだ。
その後に現れた脳科学ブームであるがこれは自分自身の、さらに「脳」というかなり深いところにあるようだが、実際は「しらないものを知る」という点においては雑学とさして変わりはない。或いは「身体の次は心に」という目の向き方かも知れない。
そして教育関連の番組についてはその心の矯正、または成長と言ったものが幼少期の経験に由来するものであるから当然とも言える。また不況が騒がれる昨今に「良い部下になる(あるいはする)ためには」という教育なのかも知れない。

もう一方の見る層の流れというのはまさに読んで字の如くである。
健康か雑学への流れは先に述べたとおりであるが、健康志向の番組や雑学関係の番組で知識を得た人たちが「じゃあその知識はどう保管されているのか」「身体の健康はわかったが脳の健康はどうか」と疑問に思うのは自然な流れだ。
さらにその人たちが今度は子供を持つ。そうして今度は教育に興味を持つ、というのはごく当たり前の流れではないだろうか。

子供を持つ人間が教育に興味を持つというのは実に素晴らしいことに思うが、自分の子供の名前の未来を想像できない大人がはたしてそのこの将来について本当に考えることが出来るのだろうか。甚だ疑問である。
この疑問から、私は次に来るTVの流れは教養であると推測する。
ここに於いての教養とは、一般常識や広い知識のことではなく、一般人・社会人としてあるべき品位・人間性のことである。

僕はTVというメディアが好きだ。育ててもらったと言っても良いくらいに感謝し、期待もしている。
僕はそのTVに優れた教養人が教養とはなにかを語っている新番組を想像する。
そしてその番組を見て教養に興味を持ち、或いは教養を得る人たちを想像する。






kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  むだ 

付箋紙




僕には友達がいます。

とてもたくさんいます。

みんな良い人です。僕に優しくしてくれます。

だから僕はお礼を言います。

ありがとうと、よく聞こえるように言います。

ありがとうと言うと相手は喜んでくれます。

ありがとうと言われると嬉しくなります。

少しむずがゆくもなります。

でも、それは良いことなのです。

人を好きになることは、

人に好かれることは、

つまり自分を好きになることだからです。

誰かを認めることで自分を認めるのです。

誰かを許すことで自分を許すのです。

誰かを好きになることで、自分を好きになれるのです。


僕には友達がいません。

あいつは友達じゃない。

あいつも友達じゃない。

そうやって周りからの愛に気づけずに生きています。

そうやって不幸せを選んで生きています。

悪いことは何もありません。

ただ不器用なだけなのです。

ただ盲目なだけなのです。


彼のことが好きです。

彼女のことが好きです。

僕には友達がたくさんいます。

僕は幸せなのです。





続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  おはなし 

行く年、来る年


行く年に縋っても

来る年からは逃れられぬ


わかってないのだろう

縋るも逃げるも

意味が無いってことを

わかってないのだろう

縋るも逃げるも

必要が無いってことを

わかってないのだろう


行く年は

逝くのだ

来る年は

繰るのだ

過去を見倣え

未来を切拓け


美しく明るい闇ではない

醜くどす暗い光を求めよ





続きを読む
kayuコメント(3)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  みち 

だからなんなの



『人が想像し得る事に

実現出来ない事は無い』




現実が想像を創り

想像が現実を作る



想像は創造に似ている。













僕は今、意識だとか心だとか、そういったものに大きな興味を抱いています。
しかし同時に、それらの曖昧な姿に感じる疑いの念もまた膨らむ一方なのです。

意識や心などと言うものは、所詮は情報の入力と出力にすぎず、まるで自分が考えているかのようにしている言動も所謂ひとつの反応でしかないということはごく単純に考えられることではないでしょうか。



さて、想像というのは記憶と記憶の関連付けであり、記憶無くしては有り得ません。
となると完全なるオリジナルというのは有り得ない事になるのではないでしょうか。
他者の製作物を用いて作り出される物のオリジナリティーとは果たしてどういうことか、
自分の考えだと言い張るそれに、果たして他者の言葉も含まれていないと言い張れるのか、

こう考えてみると独創と謳うそれは、全くの継ぎ接ぎでしかないのではなかろうか。

なんとも独創というのは心許無い。
まるで人の心のような姿をしている。



続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  いのち 

空からやってきたのは、




空から天使が降ってきた。

天使は人間なんかよりずっと賢く尊いと威張ったが、
僕は天使みたいな悪戯者は嫌いだから、
「さっさと天界へお帰りなさい」
と、追い返した。



今度は女神が降りてきた。

神の使いを無下にするなと怒りに来たが、
僕はそういう高慢で高圧的な態度も嫌いだから、
「ここは人間界です。お帰りください」
と言って帰ってもらった。



そうしているうちにすっかり日は暮れて、

僕はいつものように、晩ご飯の準備をした。

けれども火がつかない。

間もなく電気も消えた。

「今晩は随分と冷え込むのになあ」

どうやら外の天気が原因らしい。



外に出ると、ごうごう雪が降っていた。

道理でこんなに冷え込むわけだと思ったが、
僕は明日早起きして雪かきするのは嫌だから、
「頼むから晴れてくれよ」
と頼んだが、雪はずんずん積もっていった。



困り果てていると、お隣さんがやってきた。

本当は他人にお世話になるなんて嫌だったけれど、
こう寒くてはどうしようもないから、
「ありがとう、申し訳ないね。」
と、一晩お世話になることにした。



ぼうっと外を眺めていると、

「まだまだ降りそうね。」

と、彼女は明るい口調で言った。

「面倒事は嫌いだよ。今の僕の存在も面倒事だけどね。」

と、僕は外を見たまま言った。

「面倒かもしれないけれど私は平気よ?だって、楽しいじゃない。」


僕には彼女の言葉の意味が分からなかった。

どういうことか尋ねようと隣を見ると

彼女もまた僕を見ていた。

彼女の笑顔はちいさく、明るく、温かだった。

僕はその可愛らしい笑顔を見た瞬間に僕の疑問は解決され、

実に馬鹿馬鹿しいことだと気づいた。



一人よりももっと幸せなことがあると気づいた僕は、

毎日がずっとずっと楽しくなり、

世界をもっともっと好きになった。





kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ 

2人の和尚さま


最近、言動が父に似てきているのに感覚や好みが全く合わず、家族に息苦しさと淋しさを感じているkです。

というわけで、先日よりもう少し先まで実家なのでまだ更新はしない予定だったのですが、思い付いた事を忘れそうだったので。
以下の“ゲーム”とは基本TVゲームです。ただ、同様に考えられるゲームは沢山あると思うので、是非自分の周りのゲームを見つめてみて下さい。


P.S.僕はスタッフの遊び心が魅力だと思います。







あ、題名についてはノータッチで。


では本編

続きを読む
kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  みち 

すき・きらい


突然ですが、私はチョコレートが大好きです。
あの味・香り・食感全部好きです。
例えばビターじゃなきゃダメだとか、ミルクチョコの甘いのじゃなきゃいけないとかそういうのはありません。
その商品がその商品なりに美味しければ問題ないです。

思えば私は、気付いた時にはチョコレートが好きでした。
好きになる思い出があるとかそういう事は全くないんですが。(むしろ所謂“あの日”には悲しい思い出ばかりです)
ちょっぴりほろ苦いのも、たっぷり甘々なのも、どっちも良くて、そこが好きです。
ひょっとしたら、そういう経験が少なかったり、憧れてたりするからなのかも知れません。

ただ、僕には不安があります。

好きな物、こと食べ物に関して“飽きる”というのはよくある話です。
食べ物以外でも一つの事に熱中して、それこそ嫌というほどやればいつか好きだったものも嫌いになってしまいます。
大好きな大好きな物も、毎日毎日沢山食べれば嫌にもなります。

ふと思ったのですが、何故好きだったものを嫌いになるのでしょう。

確かに“嫌になるほど”と言葉をみれば当然な気もしますが、それで勝手に相手が変わる筈もなく、つまり何を言いたいかというと、“飽き”というのは自分の変化によるものだ。という事です。

では自分の何が変わってしまったのか。

好きな物を好きになる理由は様々だと思いますが、“好き”というのは“強い関心を抱いている”という感情に近いとでしょう。
相手が自分にとって得だとか以上に、相手の良さを認め、受け入れる事だと思います。
そして嫌いになるというのは、その関心が薄まる事・・・・・ではありません。
関心が薄れれば単に何とも思わないだけで無視すれば良いわけですから、嫌う理由になりません。

では何か。私はこう考えます。
好きの逆、嫌い。関心があるの逆、関心がない。
これは前の話と一緒です。でもちょっと違います。
好きな場合の関心はその物・相手に対しての関心ですが、飽きた時に無くなるのは“自分への関心”なのです。

『それ』が好きで一生懸命だった自分に興味・関心がなくなってしまえば拘る意味も消え去り、それにかける時間も苦痛へと変わってしまいます。
そして何よりこの関心には“逃れられない”という特徴があるのです。
単に無視すれば良いものも向こうが離れてくれないからどんどんと『それ』を嫌悪するようになるのです。
だから強い愛情は強い憎しみに変わりやすい。
続きを読む
kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ 

地続きの





物事には、

時が来れば決まるものと

その時までに決めねばならぬ事

の2種類があります。


また、

いつか自然と決まるものは

それまでの行いから、なるべくしてなったものと

妥協や譲歩で、自分を殺して着く結果

に分かれる。


一方、進めないと進まないものには

自分だけでなく身近な他人の人生や

動かす事の出来ない環境の問題が付き纏い、

判断を鈍らせますます。


更にこれらの決断で出した答は決して終着点ではなく、

またこの“結果”次の分かれ道をつくる“原因”となるのです。


ある原因から出された結果。

そしてその結果が次の“結果”を生む原因となる。


“原因”という言葉には負のイメージが強い。

しかしそれをこう言い換えたらどうか

『あの時出した“答”が、今の私の“きっかけ”になった』

と。




続きを読む
kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: みち  こころ 

政治への関心が薄れている理由


努力をしている姿というのは、実に美しいものです。
その姿が感動を誘う本や映画、ドラマなどの多くに取り上げられていることからも、たくさんの人々が努力の美しさを高く評価していることが伺えます。
無論私も努力している人は好きです。それは単純な好意の感情ではなく、尊敬・憧れといった敬愛の感情です。

では逆に、努力をしていない姿は美しくないのでしょうか?
何にも努力をしていないからといってその全てに『美しくない』『汚い』と決め付け、言い放ってしまうのは少し気が早いように思います。
それに、そもそも努力していない状態というのは一体どんなものなのか。
誰の、どの、どれ位の範囲での、どういった行為の、どの程度をもってして『努力している』と判断できるのでしょうか?

私はこう思います。
美しいのが努力している姿だとして、その逆の美しくない姿と言うのは努力していない姿ではなく、他人の努力を邪魔している姿である。
と。

題名について、今回書きたかった内容は以上の通りです。
社会をより良くする為には建設的な意見が求められます。それはクラスの学級会だろうが日本の国会だろうが変わりません。

そしてそれら社会は意見を出す側の関心が無くては全く話になりません。
意見を出す・関心を持つというのは言いたい事ばかりを言うという事ではないんです。
たとえばあなたが今、批判的に思っているその人は一体どんなことをしようとして今まで何をしてきたかあなたは知っていますか?
他人の意見や流れてくる情報だけから何も変わらない、何もしてくれないと決めつめて考えることを止めてしまってはいませんか?

色々見聞きした後は、もうちょっとでいいから調べて考える。
そうやって出てくるのが意見であり意思であると思います。
続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ 

中のルールと外のルール

こんばんは、kです。
閲覧者数が一桁になってしまったのでそろそろ更新したいと思います。

微熱です。
頭痛持ちの私にとって発熱はなかなかの苦痛です。
まあ、高熱は滅多に出さないんですけどね。

以上、今回の記事の内容とはまったく関係のない近況報告でした。


続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ 

歴史が苦手な人が語る形而上学、智を愛でるということ


哲学とは何か。
その答は簡単。
哲学とは考えること。

人の心について。
人生について。
善と悪について。
愛について。
この世の真理について。

答を求めること。
追求すること。
それが哲学。


だから『哲学を学ぶ』というのは
間違ってはいないにしても果たしてどうなのか?
と思うわけですよ。
『あの人の哲学』とか『あの人には哲学がある』
といった遣い方の方がしっくり来ます。



哲学というのは考えることであると同時に
“考え方”であると思います。

当然ですが、考え方は人の数だけあります。
そうなると、哲学も人の数だけあるわけで。

しかし我々のような貧弱な生物はどんなに努力をしても決して100%を理解しあうことは出来ない。
それは『自分にも判らない部分があるから』なんてややこしいことではなくて、単純に、どう頑張っても別の物体だからです。
だから「あなたの考え方が知りたい」

ところで、いくら自分に哲学を持つ素質があろうとも使い方がわからなければ意味が無い。
沢山書ける上等なあっても、それに記すペン乃至ある程度の語学力が無くては持ち腐れもいいとこです。
それ以前にノートの使い方だったり、どんなものにでもある“正しい使い方”ってやつを、大雑把にでも把握というか、理解しておくべきだと思うんですよ。
しかし“考え方”なんて抽象的なものを相手に手本に出来るのはやっぱり他の考え方。先人の知恵。
だから「あなたの考えが知りたい」

こうやって考えていくと前述の『哲学を学ぶ』というのも大切なことなんだと思いますね。
同時に「だから倫理・哲学は社会科系に含まれるのかなぁ」とも。
追求や探求の心という点では文系より、むしろ理系の実に科学者的だと思うんですがね。

昔の学者さん達みたいにいろんな分野にまで視野を広げることも必要だと思います。
たとえば頭ごなしに『UFOや幽霊なんていない!』と言うのを控えてみたり。ね。
まあ、古代ギリシャ人は一日中考え事をしていられるくらい暇人だったから、現代人の参考にはならないかもしれませんが。


『これなんだろう?』『どうしてだろう?』
と考え続けることと、なにより色々な方向に目と思考を向けること
これが哲学を持って生きるということなのではないでしょうか。



続きを読む
kayuコメント(4)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  みち 

世界が生まれた日


TOKIOの新曲、
「あーなんか椎名林檎の書く曲みたいだなぁ」
なんて思ってたら、今日ニュース見ててびっくり。
あれ林檎さんが書いたんですね(気づくの遅いって…)



と、いうわけでこれから本編です。。

例によって長いです。ごめんね。

先日、家の荷物を整理しているとむかーしのネタ帳が出てきたんです。

その内容に加筆修正をしたのが今回のお話です。

・・・しっかしまだ納得いかん。そこかしこに矛盾が・・・

うーん・・・・・・・僕は今、この世に居ますよね・・・?





続きを読む
kayuコメント(4)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ