Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

カテゴリ:おはなし

愛と愛と愛の愛の話。






 セドリックが私に言う。このままではいけないと。

 私はセドリックに言う。夢はここに確かにあると。





 目の前の石がどうして石と呼ばれているのか不思議なのだと彼女は言う。いつも僕に見せてくれる温かさを持った笑顔で彼女は言う。

 空に浮かぶ雲がどうして雲と呼ばれているのかについて僕たちは考える。幸せという形のないものを噛み締めながら僕たちは考える。

 僕を乗せて走る地球が球であることの不思議と感傷的な孤独感に気づく。僕を包む空に終わりがないという絶望的な全能感に震える。

 僕は球の外側にいる。 僕は球の内側にいる。
 君は球の外側にいる。 君は球の内側にいる。

 世界は常に僕の外の何処かに在って、僕は常に世界の中の何処かに居る。





 私にセドリックが円を書く。僕は君の外にいると嘆く。

 私はセドリックの円を指す。円の外は中になると叫ぶ。





 彼女を抱きしめるとそこには愛があった。
 愛は彼女の匂いがした。彼女は愛の匂いがした。

 抱きしめられた彼女は愛を受け取った。
 愛は彼女の匂いではないと言った。彼女は愛ではないと言った。

 確かなことは、愛が今そこにあるということ。
 確かなことは、彼女が愛ではないということ。

 愛こそが全てだ。 しかし部分に過ぎない。
 全ては愛なのだ。 だが部分が総体を作る。

 一瞬の間に百億の愛がそこら中に生まれ、百億の愛が初めからそこら中に在った。





 私を見ているセドリックを私は見ている姿がここにある。

 だから私とセドリックはここにいる。

 それはつまり私とセドリックの愛がここにあるということ。

 私たちは愛を生み愛を抱き愛に包まれ愛によって愛となり愛になる。





kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  こころ 

とても簡単なこと。



(1)

 管弦楽はもう平気っぽいです。
 弦アンサンブル系も大丈夫みたいです。
 ビックバンドジャズはもともとそんなに好きじゃなかったので分かりませんが、まあなんとか聴くことは出来るみたいです。
 サキソフォンのソロ楽曲はかなり辛いです。ギリギリアウト、という感じ。
 同アンサンブルは意外にも平気です。ちゃんと音楽を聞いて感動できるくらいに。しかしフラッシュバックにはまだ襲われます。
 吹奏楽曲は完全にダメです。テレビでかすかに流れても反応してしまいます。今までの、自分の領分のものに対するような反応ではなく、違和感というか、言いたくはありませんが微かな嫌悪感のようなものが、まだ確実に残っています。

 間違いの種を植えたのは僕であり、それらに対してまっとうな対処を怠ってきたのも僕自身。僕は僕に対して罪を犯し、そのために僕は僕に償わねばならないのです。
 僕は過ち、僕を不幸にした。だから僕は努め、僕を幸福にしなくてはならないのです。

 これは自省ではありません。
 これは逃亡ではありません。
 これは後悔ではありません。
 これは謝罪ではありません。
 これは請罪ではありません。
 これは償いではありません。
 これは諦めではありません。
 これは希望です。
 これは決意です。
 
 僕が僕の中に見つけたものは、
  後悔と、
   絶望と、
    諦めと、
     使命と、
      目標と、
       目的でした。

 あとは、勇気と、努力だけです。
 とてもとても、簡単なことです。




続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  じぶん 

哲学のSF


 人間が哲学をするのは、それは世界に向けての愛である。
 自分に見えているすべてを理解し、自分自身を理解しようとする。
 愛智。それが人間の持つ確かな本能なのだ。

 しかし考えたことはないだろうか。多くの人間たちがどうしてこんな、何のためにもならないものを追い求めてきたのかと。
 愛を持つことがよい。
 真理を知ることがよい。
 はたしてそうなのだろうか。だがそうするよりほかないのだ。愛すること、求めること、成長することこそが生きているということであり、生きてゆくということなのだから。
 そうやって自分を追いつめて束縛するのをやめれば人間は簡単に死ぬ。
 そして死ぬのは嫌だというのが生物としての本能だろう。ということになっているから、人間は哲学をする。

 いいや、違う。と僕は仮定する。
 死にたくないから哲学をするのではなくて、哲学をし続けるために死にたくないと活動し続ける思考構造を持って生まれてきたのではないだろうか、と。
 持って生まれてきたとはどういうことか。それは与えられて生まれてきたとも言えるのではないか。

 僕は言う、哲学は愛の行為だ。
 僕は問う、哲学で何を得るのか。

続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  じぶん 

私は本を読んでいる〜女性作家編〜


 つっても直近で読んだのは唯川恵と本谷有希子で、今読んでるのが山本文緒と有川浩(予定)なんで、こうして並べて見るとまあそうたいしたことないのかななんて思うわけです。

 唯川恵はまあ置いといて、ついこの間読了した「本谷有希子」この人の作品について。ショージキ僕は漫画も小説もいわゆるジャケ買いをしてしまうタイプでして(悪癖でありますな)。といってもこの『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のカバー絵は、あの! 山本直樹センセイですよ! ほんとにもー・・・しかしながらここで僕の山本直樹愛を滔々と語りだしたところでそれは本題からの脱線以外の何者でもないのだからやめにし、というかもう既に脱線しているだろう! ということで話を戻しますと、戻しますと、、、えーっとなんだっけ?
 出会いは某世界的超大規模超書店、その姿なき密林の中で僕はコレに出会ったのです。デザインとしての素晴らしさは前述のとおりだけれども、いかんせん僕はニートであるからして慢性的な資金不足である。が、いやなにそれも大した問題ではない。本は万人に開かれていなくてはならないというように書店には立ち読みという素晴らしいサービス体系があるではないか! だが、僕はここで驚愕の事実にぶちのめされることになる。そうだ、密林での立ち読みは物理的に不可能だったのだ! だがここで購入を決めるのはまだ早い。僕の足元をみると自分ではない誰かの足跡が多数ある。かつて僕と同じように購入を夢見てこの密林に足を踏み入れていった者たちの残したものだ。そして僕はそれをありがたく利用させてもらう。1つには「コレはとんでもなく素晴らしい本です3冊は買いましょう!」と書いてあり僕はこれでこの本を高く評価している人がいることを知る。またひとつには「こんなペラッペラでスカッスカな本に500円も払う価値なし!」と罵っていらっしゃる御仁もおられ。と、そんな感じで彼らの足跡もとい簡易読書感想文を読んでいくと一つ気になるものが。それによると、なにやらこの作者の本谷有希子さんは演劇とか舞台とかつまりは劇作家の人らしく、しかもなかなかの賞をいただいてるとか。しかもこの件の本は三島賞候補になられたとか! うん! 買い!
 と、ここまでが買うまでのお話。
 で、内容の方なんだけど触れる? まあもうここまで書いたし触れなくてもいいかなぁなんて・・・いやいやそんな怠惰な僕ではありませんので仕方ないから君たちのためにめんどくせえなあとかなんでこんなことやってんだよ俺キチガイかよバカかよとか漏らしながら感想書いていきたいと思います(やっとこさ)。
 この作品は三人称視点を主軸にして作品を形作っています。この神の視点での地の文がまさに描写描写描写のうえに描写といった感じで、それが舞台となる典型的な日本の田舎の描写であり、そしてその村に役者たちが抱く閉塞感をじわじわと表現しているという意味では効果的なのかもしれないが、しかしながらマエヒョーバンのセンニューカンのバカヤローのせいかこの「ただそこにあるものを書き出す」という書き方が、「どうも劇の台本のト書きのようで味気ない」と言われても、まあ確かにそんなような気もする。
 お話の形の方に入りますと「ほほうなるほど」と思ったのは、ちいさな区切り区切りで焦点をあてる登場人物をコロコロとかえる手法。特に何も考えず脳みそパッパラパー状態でページをめくるとなにがどうなっているのかわからなくなるのです。ワケワカラン感じでフラフラさせて世界に引っ張り込み、登場人物ひとりひとりのドラマを魅せることで物語の深部へと引き摺り込む。
 ほいで、内容の方なのですけれども、これが、うーん・・・誰を主にして見るかにもよると思うんですよね。姉か、妹か、兄か、その嫁か。
 村という「実家」であり「牢獄のような場所]、そして脱出した先にある「希望の地」であり姉の挫折とそれでも捨てきれない夢の「目的地」としての東京。
 中身的には非常に陳腐です。先程の描写重視の三人称視点という書き方はその狙いも含め「正しい小説の書き方参考例」といってもいいくらいものが昔からありますし、挫折→文通→「しかしその相手が!」みたいなのはそろそろ古典と言ってもいいんじゃないかと言うくらいの展開なわけでして・・・
 いや! 面白かったんですよ! この古臭い形式に主役として当てられているのは明らかに姉さんなのですが、この作品自体の主役は妹なんですよね。つまり物語の表面上の主役と裏――とも言えないなにか中途半端な位置――の主役が異なる。ということにこの作品の面白さがあるのだろうと思う。


 まあ、まだ1回しか読んでないんだけどね。



続きを読む
kayuコメント(2)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  きをく 

密林に立つ



 「好々爺」といってしまうのは彼の年齢から考えてもさすがにまだ早いだろうし、僕自身も少し気恥ずかしいところがある。
 しかし夕食の団らんの後、一人テーブルに残りテレビを見ながら泡の薄くなったビールを飲む彼の横顔をみていると、それはとても優しく、幸福に満ちていてまさに「好々爺」という言葉がふんわりと僕の頭の中に満ちてゆく。

 僕はお酒を飲んでいる彼が好きだ。「それ以外の時が気難しいとか近寄り難いとかひたすら怖くて酒でも飲んでてくれないと」とかいうことではない。
 彼は仕事をしている。それも多くの人間を統率する仕事である。朝早くから夜遅くまでの毎日である。
 ある一日をある一人としてある仕事を真っ当に果たした後、我が家という家族という帰るべき場所でようやく何ものにも代え難い安息に包まれているそれらの姿を見て、もう何の間違いもなく彼が僕らの大黒柱と呼ぶにふさわしい大きな人であることを認めるのだ。そしてその背中から、僕らは努力と辛抱と成功と大きな大きな愛を強く強く感じる。
 そして僕はその姿を見て、かくありたい、と思うのだ。

 親と子は似るものだ。生物としてそれは自然なことだし、人間はとても長い時間を親と暮らすのだから赤の他人よりは似ているに決まっている。
 僕たちは三人兄弟で、僕には成績優秀で運動神経も良い音楽家の兄と、まだ幼いが努力家で「日々」というものを怠らない妹がいる。どちらも僕の自慢だ。そして僕らもまた先と同じ理由で似ているといえるし、実際似ている。

 僕らにもっとも近しい人が言うには、僕は兄弟の誰よりも父に似ているのだという。
 前にも言ったように父は尊敬されるような人間である。たしかに親子が似るのは当然であると言ったが、他の候補(しかもより優秀な)がいる中で一番の落ちこぼれである僕が選ばれるというのはどういうことだろう。これは何かの間違いである可能性がある。
 しかし、残念なことに、僕と父さんが似ていると言い出したのは他ならぬ母であり、それはつまり家族のすべてを見、家族のすべてを握る人間の観察から導き出された答えであるので、僕ごときにあらがう余地はないのだ。

 たしかに、僕は父と似ているといえる。これは明らかな事実だ。くしゃみの時の爆発力や居眠りの時の不可解な姿勢、普段しない料理の局所的なこだわり方や嫌みや皮肉を言うときのなんとも可愛らしくない感じ。
 似ていないと言えば間違いなく嘘になるし、似ているからといって困ったり嫌な思いをしたりもしない。むしろ嬉しく思うことすらある。面映ゆい思いをすることはあるが。

 しかしながら僕と父には大きな違いがある。それは、父は手を抜かずきちんと勉強をし地道にこつこつと努力をして事を成すような人であるのに対し、僕はたった一つのことに対しても敢えて努力をせずできうる限りの手抜きと取り返しのつかない位の怠惰でもって時間に牽引されながらずるずると進む人生の僕とは全く違うのである。

 大きな、大きな違いである。

 僕はこの僅かな人生において沢山のものを失った。
 しかしそれらは「やむなく失った」のではなく、気がついたら取り戻せないところまで見送ってしまっていたのだ。

 選びもせず、捨てもせず、怠惰とともに大きくなったこの目の前の密林を見よ。何が見えるだろう。反省か、虚無感か、怒りか、絶望か、それともこの先いつか出会うかもしれないような微かな希望でも見えるというのか。
 僕には見えない。何も見えない。
 僕は僕が作り出した大きな大きな樹海の中で、地図もなく方位磁針もきかない大きな大きな樹海の中で、出口も目指すべき場所も定かでないまま歩き続けようと言うのか!

 僕は密林に立つ。


続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし 

明日には、また日が昇る。




 携帯電話を落とした。
 その上を白い軽自動車が通った。赤いワゴン車だったかもしれない。どうという違いではない。
 赤いフレームの欠片が黒いアスファルトに映える。僕はそれを歩道の上からただ黙って見ている。
 なにも急ぐ必要はなかったのだ。携帯電話がポケットに入ったことを確認して。車が来ていないことを確認して。なんだったら少し先にある横断歩道を使ったってよかった。

 ふいに、なんだか全てがどうでもよくなった。
 これからどうしようかとか、考えるべきことはあるし正直不安でたまらなかったはずなのに、僕の身体はは言葉にし難い解放感みたいなものに包まれていた。
 取り返しのつかない状況に絶望してしまったのかもしれない。でも、どこかでこうなることを待っていたような気もする。
 夕日が沈んでゆく。
 今のこの世の中で本当に一人でいるということは難しい。たった一人で生きてゆくというのは不可能だと言ってもいい。
「でも」と僕の中の僕が言う。
 身体的に一人になることは不可能でも精神的に一人になることは可能かもしれない。

 自分で捨てる勇気はないから、誰かに捨ててもらうことを待っていた。
 これは自由ではない。解放でもない。
 なにか、と訊ねられればこれは「裏切り」である。
 僕は瞼を閉じ、青空を心に思い描く。吹き抜ける風を想像する。そこに立っている自分になる。
 持っていたものを失ったのか、失ったという現実を得たのか、それは単なる言葉遊びにすぎない。

 静かに深く息を吸う。吐いた息が白く濁る。
 確かな足取りで僕は家に帰る。
 住み慣れた我が家に帰るのは僕以外に誰もいない。
 僕のこの世界には僕以外に誰もいない。

 明日には、また日が昇る。



kayuコメント(2)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし  いのち 

光の隙間



久しく更新していなかったのはPCネット環境が無かったからで。

ただ生存の確認だけに更新するのもなんなので、少々ポメラで打ち込んだ文章をば。


続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし 

散歩学派/壁


「散歩学派」
 と、一言だけ書かれたメモ帳の1ページがふと目にとまる。
 そのメモは間違いなく僕がつけたものなのだが「散歩学派」というものが一体何なのか、とりあえず今日の僕にはわからない。いつどこからその言葉を、そもそもなんのために書き残しておいたのかさえ定かではない。
 ただひとつ言えることは「散歩学派」という言葉がなんとも響きのいい、メモせずには居られないような言葉だ、ということだ。

 最近はずいぶんと便利な世の中になったものだ。といっても僕は「最近」しか経験の無い未熟者なのだが。便利な世の中を当たり前だと思ってはいけない。文明の発達と道具の進化、なによりその開発者の方々への感謝の気持ちを忘れてはいけないのだ。
 そんな感謝の念を抱きつつ僕は蜘蛛の巣に問いを投げかけてみる。
 散歩学派とは、あの、アリストテレスがモノを考えるときに実践した方法から着ている呼び名だとか。散歩していると思考が活発になるらしい。
 システムエンジニアだとかソフトウエアエンジニアだとかプログラマだとかウェブデザイナに感謝の意を表しつつ、僕は静かに検索結果を閉じる。
 散歩学派がなんなのかはわかった。しかし問題は「だからなんなのだ」ということである。この言葉から何を見いだすのか、この言葉をどう生かすのか、それが問題だ。

 僕はそっと目を閉じる。そして想像してみる。静かな道路、美しい並木道、微笑ましい子どもたちの戯れ、爽やかな風、その中を歩く自分自身の姿を。目的地はない。ただ歩いているだけだ。これから思いつくべき名案こそが目的地であるとも言えるかも知れない。僕は歩く。ただ歩く。そして見つけるべきものを見つけるのだ。
 ふと、日差しの変化に気づく。「これはなんだろう」あたりを見回すまでもなく僕は自分の目の前に大きな壁が立ちはだかっていることに気づく。「こんなに近づくまで気づかなかったのか」僕は冷静な振りをしてみせるが。内心は穏やかではない。さっきまでの美しい景色はなく、あたりは閑散としている。壁は僕の目の前、まさに目の前に、冷徹な面持ちで立っている。壁は決して破られることはないし、飛び越えることも回りこむこともできない。僕にはそれがわかっていた。何故それがわかるのかはわからなかったが、それはどうでもいいことだった。
 振り向くと反対側にも大きな壁が、僕を睨んでいた。そびえ立つ壁はひどく冷たい。僕はたまらなく淋しくなって走りだしたい衝動にかられたどこでもいい、どこかへ行きたい、ここじゃない何処かへ行きたい。
 壁は長い長い道になっていた。
 どこまで走ったのか、振り返った方向に僕がさっきまでいたはずの場所はなかった。
 あるのはただ、高いだけの壁だった。
 そもそもこの長い長い道を遥かに辿ったところでどこへもいけないというのは一番最初の時点でわかっていたのだ。最初とはどの時点だろう。道ができたときか、道が壁だった時か、壁が現れた時か、もっと前のことか。そもそも僕はこの壁があらわれるということを知っていたのではないだろうか。しかしそんなことは今となっては全くどうでもいいことだ。今はもう壁ではない。行き止まりとなってしまったのだから。
 僕は突き当たりの壁から視線をずらすことができなくなっていた。
 問題は問題として認識されなければ成立しない。はじめからそこに無いものとしていれば悩む必要も無いのである。今ここにいる僕が銀河の果てで起こっている宇宙戦争について悩むことはないように、後ろを振り返ることをしなければ行き止まりはただの行き止まりなのだ。
 僕はゆっくりと後退りする。後ろが見えないから足元は不安定だが文句はいっていられない。僕はこの行き止まりが行き止まりのうちにここから出なくてはならないのだから。ここから出る? どうやって? どこへ出るっていうんだ? 自問の答えが出るより先に僕の体が後ろに大きく倒れこむ。
 怪我の心配はない。背中側の壁が僕を無感情に立たせたままにするからだ。
 正方形の床に僕は座り込む。ここは穴だ。僕は深い深い穴に落ちてしまったのだ。冷たい壁に囲われて僕は、いじけることしかできない。どうすればいい、どうやったらここを抜け出せる? ここを抜け出してどうする?
 はじめから答えなど出ないことのわかりきっている問いかけに僕は辟易して天を仰ぐ。「僕はどうすればいい?」空は冷たく無視をする。意思の無い空。無色の空。冷たい空が僕を見ている。
 四角い部屋に閉ざされた僕の意識はもうほとんど無くなりかけている。
 なにがあってなにが無いのかもわからない。はじめから無かったのかも知れない。もうどっちでもいい。少なくとも今の僕はなにも持っていないのだ。ポケットを叩いても埃しか出てこない。見えるのは壁壁壁壁壁。僕は壁は誰よりも持っているらしい。壁しか持っていないし、しかし壁は壁以外の意味はなさない。
 ここで僕は気づく。壁が5つで部屋になり、4つで穴になり、3つで行き止まりになり、2つで道になり1つでただの壁になる。
 では1つもなかったらどうなるのだろう?
 考えるだけ無駄なことだ。何故ならそこには「無い」という事実しかないのだから。
 いや違う、壁のない世界は確かに存在する。そこは広い荒野! ただ広い広い荒野なのだ! そしてその荒野すらない世界には無限の宇宙が広がっているのだ!

 僕は宇宙の海に漂っていた。美しい海。そこで絶大なる宇宙意思のもと絶大なる自由を手にいれたのだ!
 僕には自由がある。自由しかない。それは何も無いのとどう違うのだろうか。何も無いというのは問題ではない。何も無いということは問題自体が無いということだからだ。悩む必要も無いのだ。

 僕はひとしずく涙を流した。頬に跡を残してそれは消えた。









続きを読む
kayuコメント(4)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし 

付箋紙




僕には友達がいます。

とてもたくさんいます。

みんな良い人です。僕に優しくしてくれます。

だから僕はお礼を言います。

ありがとうと、よく聞こえるように言います。

ありがとうと言うと相手は喜んでくれます。

ありがとうと言われると嬉しくなります。

少しむずがゆくもなります。

でも、それは良いことなのです。

人を好きになることは、

人に好かれることは、

つまり自分を好きになることだからです。

誰かを認めることで自分を認めるのです。

誰かを許すことで自分を許すのです。

誰かを好きになることで、自分を好きになれるのです。


僕には友達がいません。

あいつは友達じゃない。

あいつも友達じゃない。

そうやって周りからの愛に気づけずに生きています。

そうやって不幸せを選んで生きています。

悪いことは何もありません。

ただ不器用なだけなのです。

ただ盲目なだけなのです。


彼のことが好きです。

彼女のことが好きです。

僕には友達がたくさんいます。

僕は幸せなのです。





続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: こころ  おはなし 

これはひょっとしたら好きなヒトができたとかいうようなそういうアレかもしれん


 小学2年生以来ずっと会ってなかった友達に会った。
 友達っていうか女の子。それはもう優しくてかわいい女の子。

 保育園から小学2年生まで、というのは引越・転校の連続の中ではおそらく最長期間、同じ人間と日々を過ごした時期でした。
 その頃僕は好きな人がいてーーと言っても子供の言う「好き」ですがーーその子はちょっと舌っ足らずな感じの可愛らしい子。
 あまりはっきりとは憶えていないんだけど、多分幼稚園のあたりからずっと、転校するその日まで好きだったんじゃないかなあと思う。
 転校する日が間近に迫ったある日の夜、僕は夢をみたのです。
 友達と離れるのが淋しいという夢。この美しい町を離れるのが淋しいという夢。
 皆との楽しい未来の想い出がつくれなくなる切なさ。この町の変化を見てゆけないという切なさ。
 それが人生初めての転校だったからでしょう、僕の淋しい、悲しい、苦しい、夢とも現ともつかない僕の意識は一晩中続きました。
 そして最後には女の子が一人現れるということを僕は最初からわかっていました。なぜなら僕はそのこのことが好きだったはずだから。
 頭までかぶった布団の隙間から朝日と思しき冷たい青白い光が仕込んできていました。
 朦朧とする意識の中、僕は一人の少女を見つけました。
 それは後ろ姿でした。後ろ姿でも、僕にはそれが誰だかはっきりと分かりました。ただその人が、予想していたのとは違う人だったので少し驚きました。
 少女は僕の記憶によってデフォルメされた小さな家の前に立っているだけで、決してこちらを向いてはくれませんでした。僕は少し離れたところで少女の背中を見つめて立っています。ただ立っているだけなのに何故だか彼女との距離はどんどん離れて行ます。
 僕は小さくなった彼女を見つめ、大きな声を出して泣きました。
 僕はこの時初めて悟ったのです。僕はこの人の事が好きだったのだと。

 小2ぶりに会った女の子に対して僕が持っている一番美しい思い出といえば、「掛け算の九九を暗算する」という小試験みたいなものに関するものでしょう。
 そのころから既に愚図で鈍間だった僕は、いつも七の段でつっかかってしまい、放課後まで残って九九を唱え続けていたのです。
 しかし、小試験というだけあって合格するには同級生の児童に試験官になってもらう必要があるのです。その子から合格印をいただけなければ僕はいつまでもこの教室から家に帰れないのです。
 そしてその日、僕の九九試験の教官をしてくれたのがそのものズバリ件の女の子だったのです。
 彼女は明るく元気な実に素晴らしい女子小学生! といった感じで、現にこうして僕のような路傍の石の如き人間に放課後まで付き合ってくれているということからもその溢れんばかりの優しさを感じるには十分です。
 僕はこの子ではない別の女の子に恋心を抱いていました。

 夢に現れたのは少女のままの姿でした。当然です、僕にはその頃の記憶しかないのですから。僕と同い年にしては幼い彼女は、僕の希望的観測に基づいてほのかに大人っぽさのようなものを醸し出していました。
 あのとき僕を支えてくれた笑顔はそのままです。
 変わらない優しい笑顔にほっとした僕は、彼女がいったいどうしてここにいるのか聞いてみることにしました。しかし彼女は相変わらず微笑みかけるだけで答えようとも、喋ろうとすらしてくれません。
 何か悪い言い方をしてしまったのだろうか。気に障るようなことをいってしまったのだろうか。
 狼狽える僕を彼女は笑顔のまま見つめています。
 違う。いいんだ、このままで。
 僕がいて、彼女がいて。
 あの時と同じ、僕を支えてくれる笑顔がそこにある。
 ただそれだけで幸せ。

 僕はここ数年、寝起きに問題を抱えていたが、その日はすっきりと目覚めることができた。
 理由はわかっている。はっきりしている。



 僕はその日、恋をした。




続きを読む
kayuコメント(4)トラックバック(0)  
カテゴリ: じぶん  おはなし 

秋刀魚を喰う男の話


男はまだ空が四角いと思っていたような子供の時分から猫が好きだった。
あのふにゃりとやわらかいさわり心地も好きだったし、気付けば一日中眠っているという自由を体現しているような立ち振る舞いに憧れたりもした。また、こいと呼んでも来ないくせに喧嘩をした後の淋しい帰り道ではどこからともなく現れて慰めてくれる、その姿は堪らなく格好よかった。
あの質感といい生活リズムといい、猫の不思議さは少年を釘付けにしたが中でも食事風景については疑問が消えなかった。
少年には魚が喰えなかったのである。
煮ようが蒸そうが焼こうがあの口いっぱいに広がる生臭さと口いっぱいから水分を奪うぱさぱさ感はどんな魚を喰ってみても同じことだった。
そして何よりも許せなかったのが小骨だった。男はベジタリアンではなかったしこれからもそうなっていく予定はなかったので、動物の肉を喰らって生きていく以上生き物の骨とは出会わずにはいられない運命にあるのだが、それでも魚の小骨だけは他の生き物の骨とは一線を画するものであるに違いなかった。
男がこれほどまでに魚の小骨を嫌うようになったいきさつは不明である。しかし少年時代に猫がその小骨も厭わずに魚を喰らう姿を見て「なんともはや猫というものは実に優れた生き物だ」と感心した記憶があることから恐らくその頃にはもう小骨への恐怖心は確かなものとしてあったのだろう。
「こんなところで悪いね。でも味は確かだからさ、安心してよ」
先輩に紹介していただいているという立場でありながらこんなことを考えるのは失礼極まりないと頭ではわかっていながらも男は店に入ってから席に着くまでの僅かな間に何度かきちゃないと思ってしまったのは事実である。
「いえいえとんでもないですよ。でもいいんですか?本当にご馳走になっちゃって」
口ではそういいながらも内心はひやひやしていた。それはなにも普段一緒にいない先輩と膝を突きあわせているからではない。無論それも少なからず影響しているのだろうが彼の一番の心配の種は辺りをちょっと見回しただけでわかる。
「すごいだろう、ここの秋刀魚は絶品なのさ」
先輩に声を掛けられて初めて彼は、自分が「秋刀魚」と大きく書かれた張り紙を穴の開くほど凝視していたことに気付いた。
不意に声を掛けられ驚いて我に返った彼の前には吸い込まれるような先輩の笑顔だった。そこには一点の曇りもない。
極まりが悪くなって視線を下に落とすとそこにはいつの間にやら運ばれた秋刀魚の塩焼きがあった。
おいしいよ。とすすめてくれる先輩の笑顔に胃の辺りがずきんと痛む。
彼は仕方ないという思いと情けないという思いの中ざくざくと秋刀魚のみをほぐし始めた。
ざくざく、ざくざく、しかしいつまで経っても秋刀魚の小骨はなくならない。貴様ら何処までもぐりこんでおるのだ!と今にも叫びだしそうになったとき、先輩がふふっと笑った。
「キミは魚を食べるのが下手だね」
そういって先輩は彼の皿を手元に寄せると見事な箸捌きで彼の分の秋刀魚の小骨を取っていった。彼がいじくり倒したためにもう半分が粉と化していたがそんなことはたいした問題ではないようで、あっという間に秋刀魚の小骨は取り払われてしまった。
「キミ、魚嫌いでしょ?」
先輩を疑っていたわけではなかったが、まだ小骨が残っているのではないかと慎重になっていた彼はぎくりとしたが何とか返事をしようと試みた。
「先輩は、猫みたいですね」
自分でも何故こんなことを言ったのかわからなかった。たしかに、焼きたての秋刀魚をおいしそうにほふほふと食べる先輩の姿は猫のように見えなくもなかったが、それにしても突然すぎた。
先輩も突然の彼の言葉に一瞬と惑ったようだったがすぐに笑顔に戻り、
「へぇ、猫は好きなんだね」
と、問いかけるでもなく確認するでもなく、独り言とも思えないような口ぶりでそういった。
「先輩のおかげで秋刀魚も好きになりそうです」
秋刀魚だけだろうね、と微笑む先輩の横顔は恋人というよりは母のような、優しさに溢れた微笑だった。


続きを読む
kayuコメント(2)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし 

告白



『好きにやればいい』というのは過去を過去として認められて初めて言える言葉です。
過去というものが恐ろしくて振り返ることも出来ない私には、その言葉はあまりに残酷な言葉でした。
私はその恐怖に立ち向かう事が出来なかったのです。だから未来ある少年にまでその未来を摘み取るように、踏みにじるように、




ここから先はインクが滲んでいて読み取る事が出来ない。手紙の内容から察するに父とは師弟関係か何かだったのだろうか?
そもそもこの手紙(らしきもの)が挟んであったノートもずいぶんと古いもののようだ。父はこの手紙をいつ、どこで、そして誰から送られたのだろう。
脈絡のない単語の並んだこのノート中でこの手紙の挟んであったページは明らかに異質のものであった。
ここにこの手紙について、またこの手紙の差出人についての何かが隠されているのだろうか。




人生は否定である。
ああなりたい自分、こうなれない自分、ああなりたかった自分、こうなれなかった自分。比べてしまうから苦しく、比べてしまうから悩む。
望まず、憧れず、捨てて、諦めて、否定することで今という自分を保っていられる。
だから人は過去を懐かしむ。
否定されてきた過去という自分をいとおしく思うのである。

――ところで「いとおしい」という言葉をいま自然とかわいがり愛しく思うという意味で読み取ったであろうと思うが、この語を辞書で引くと可哀想に思うという意味がまずはじめに来ている。一説には「厭う」と同じ語源とも言われている。
さて、今の一文で私は一体どちらの意味に重きを置いてこの語を使ったかと疑問に感じるであろうが私はあえてその答をここには書かないことにする――

『君には未来への無限の可能性がある』
というのは過去から確定された今を生きる人間が他人に対して言う無責任極まりない発言であり、無限の可能性というのも過去と現在の位置関係から未来というものが限りなく確定された状況の人間が自分と他人との相対から錯覚する「限りなく無限に近い、可能性のように見えるもの」である。
現在から見て過去の可能性は「あったと言われればあったかも知れない」し、未来の可能性は「まだ訪れていないからわからない」のである。



中学校で国語を教えていた父は生前よく本を読んでいたそれはとてつもない量だったが、彼はそれらを飽きることもなく何度も読み返しそしてノートにメモとして遺していた。
おびただしい数の記憶の隙間に一通だけ挟まれたこの手紙に一体どんな思いが込められているのか、それを唯一知る父は私の居る部屋の隣で静寂に包まれている。



続きを読む
kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: おはなし 

夏の夜空、晴れ。


久し振りに夢をみた。
そこには懐かしい空気と、淋しい思い出があるだけだった。


僕には悪い癖がある。
それをはっきりと注意されたのはその時の一度きりだったけれど、それ以前からその直すべき癖はしっかりと自覚していた。

他の人はどうなのか、それを知る術はないが、僕には自分が何を考えているのかわからない。
会話のうちに信念は大きく揺らぐし、答の方向性は二転三転する。間違ないと確信をもった言葉でさえきっぱりと応えることを躊躇ってしまう。
会話をしていると、この自分でも把握できていない“自分”が見透かされてしまいそうな気がして僕は相手と目を合わせることができなくなってしまうのである。

彼女に対しても、それは同じだった。
記憶とも言うべきその夢の中でも、それは同じだった。

彼女は逆に、余所見をしてくれない人だった。だから僕はいつも狼狽えてばかりだった。
そんな彼女の視線に僕は鬱陶しいとも愛しいともつかない感情を抱いていた。


kayuコメント(1)トラックバック(0)  
カテゴリ: きをく  おはなし 

始まりの夏の日の夢


身体が重い。重力で全身がベッドに沈んでいるのがはっきりとわかる。
いや、今この瞬間にも沈んでいっているのかもしれない。

ふっと、目の前が暗くなる。

僕は意識を失ってしまったのか、それすらもわからない。
それとも目を瞑ってしまったのか、それすらも考えたくない。

怠い。重い。苦しい。

それは圧し掛かるような圧迫感とは違った、吸い込まれるような、
深い深い闇の底へ落ちてゆくような孤独感と解放感だった。


いやな気温の高さだ。水気を含んだ生温かい大気が身体に纏わりついてくるようなしつこい暑さ。
点けっぱなしの扇風機から送り出されるぬるい空気が頬を撫でる。
なにかが、頭をよぎった。
ひとしずくの涙が閉じた瞼から枕へと落ちる。
ぼんやりと見えるオレンジの光は僕を包み込むようで、それが余計に腹立たしかった。
心の内を見透かしたようなその優しげな光が、譬えようもなく憎らしくなったのだ。

それは前にも見たことのある景色だった。
既視感というよりはすっかり忘れていた約束事を思い出したような、そんな感覚に近かった。
僕がいて、少し離れたところにその人がいる。暗くて顔がよく見えない。なぜかよくわからないが周囲が煩くて何を言っているのか聞きとることもできない。
もう少し近くに寄ろうと思っても身体を動かすこともできない。
何かを伝え終え僕のほうを見なおしたその顔はなんとも爽快で悲しげな顔をしていた。
その顔は、僕の知っているその人のどんな顔よりも美しかった
僕は何の反応も返すことはできなかった。
ただ、そこから離れてゆく後姿を見つめつづけることしかできなかったのだ
それからその人は、とうとう僕のもとを離れた。
いや、もともと僕のもとにいる気などなかったし、その頃にも特に意識して僕のもとにいるのだとも思ってなどいなかったのかもしれない。
しかしそれでも、後ろ姿しか見ることのなくなったその事実に、僕はまた打ちのめされることになるのだ。

そこまで思い出して、僕はまた泣いた。
今度ははっきりと、涙が頬を伝うのがわかった。
涙は温かく、そしてすぐに冷たくなった。



続きを読む
kayuコメント(0)トラックバック(0)  
カテゴリ: きをく  おはなし