結局なに書きたいのかわかんない感じになった。


音楽に「二次創作」っていう考え方はあまり無いように思う。
最近特にエレクトロっていうかそういうDJ、ダンスホール的な音楽を聞く機会が増えたんだけど、そういう所ではかなり豪快に切ったり貼ったりしているんだけど、そういうサンプリングやリミックスやアレンジやメドレーやマッシュアップやなんやかんやっていうことになっていて、二次創作とか引用とかオマージュなんていうのもあんまり見ない。


舞城王太郎は愛媛川十三に「文学なんてものはない」「文楽(ブンガク)やらせろ」なんて言わせている。
「学」なんていう格好つけた名前につけてしまったせいで高い高い敷居ができて、「判っている人間」と「判っていない人間」が出てきてしまった。
読んだり書いたりで遊んだり楽しんだりするのに明らかに特権的な敷居ができてしまって、時々入ったり出て行ったりできるようなものでなくソレを目指すような人にしかやりようのないモノになっているのは良くないだろ。
それに比べて音楽はどうだ。
好きな音楽を聞いたり歌ったり、あるいは自分で作ったり演奏したりして、あんまりよく「判ってない人たち」が自由にウロウロしている。

みたいなことを書いていたのが『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』に載っていたなあなんてことを思い出した。
3弦のならないバレーコードでひたすら叫んでも「音楽やってる!」って言えるように文学があるって言うのは面白いのかもしれないけど、例えばそういう鬱屈した僻みと妬みと嫉みと尊敬が「二次創作」とかそういうものを生んでるんじゃなかろうかと。

いままて、だったらそういう「二次創作」みたいな感覚ってどれくらい必要なんだろう?
二次創作がアレンジやサンプリング、リミックスと違って素晴らしいところってなんだろう?
例えば二次創作でなら美しくて可憐な美少女をずっぶずぶに蹂躙しても本編には影響を及ぼさない「個人の脳内作品世界」だから良いんだろうか?
いや、むしろ逆なんじゃないか。
二次創作が素晴らしかったら、それによって元の作品が、元の作品に対する視線が大きく変わってしまうんじゃないだろうか。

文章は産み落とされてしまえば最後、誰にどう読まれるかなんていうことはもう作者にはどうしようもない。誰かの解釈によって誰かの読み方が生まれ、「もっともらしい読み方」が生まれることで「何やら正解らしいもの」ができ、更にそれらは時代やら書き手についての研究やらでいくらでも変わってしまう。
音楽は曲そのものと演者がいて成るものだから、ひとつの曲を無数の演者が扱っても「各々の演者の色がある」となって曲自体が変質することはない。曲に対する解釈で表現の可能性はたしかに残されているが、そのときの「曲自体」と「演者」ははっきりと隔絶されている。
だいたい小説みたいなものはむやみにつけ入る隙を作りすぎている。そのくせ権威ばっているので、馬鹿馬鹿しい読みは相手にされない。
いっそ歌の歌詞のように始めっから意味なんてないんじゃねーのと開き直れるくらいがいいんじゃないだろうか。

いや、そうじゃなくて、そもそも僕は「文学と音楽で、ありそうでないものってあるよね。あんまり近づきすぎなくていいんじゃない」という擁護の思いつきを書こうとしていたんじゃなかったっけ?
どうして「近づいていこう」みたいな話になってるんだ?

ところで『這いよれ!ニャル子さん』の1期エンディング『ずっと Be with you』が今更になっていいなあと思い始めている。
いやいいですよこれほんと。

そういえば、アレンジやリミックスでない解釈や二次創作は神話を生み出すな、なんてことを思いついたから書いておく。
国生みやなんかですら、どこが最初なのかは分からないが、世界各国に似たような神話がある。あれは完全に二次創作だし、神話や、聖書なんかもオカルティックな与太話に解釈と深読みがこじれにこじれてとんでもない規模になってしまっている。
再利用の敷居が高いために後戻りできなくなっているようにも見える。
あるいは音楽の再利用の敷居がほぼほぼフラットなので神話になりようがないのかもしれない。
ほぼフラットで、再利用すればそれは「新しい曲」として受け入れられる反面、「パクリ」として公に近づいてゆくことも許されないので、巨大な音楽はそれひとつとしてしか成り立ちようがない。
最近だとクトゥルフ神話のような物もあり、これを最初に知ったとき、互いに互いを利用し合う姿が落語の『月宮殿』みたいだななんて思った。

ところで思い出したのでこれも書いておくが、AmazonがKindle Worldsなんちゅうサービスで公認二次創作のサービスを始めていて、まだ日本ではやっていないようだけどコレはまさに二次作品が一次作品に影響を与えるもので面白いと思う。
どうなるんだろう。