Sincerely for...

このお話は事実を元にしたフィクションです。 期待は小さく、思い出は大きく。

タグ:こころ

相手の存在を完全に消去できるピストルと弾丸があったなら、今の僕ならどう使うか決められないだろう。


『死が2人を分かつまで』

どんなに愛し合っていても、死ねば関係ないのだろうか?

それとも、死後の世界では、私はあなたの中の私とは別。無論、あなたと私の中のあなたも別。それは意識が創り出すもの。
肉体が滅び、精神だけがただ在るその世界では、あなたと私は誰に認められるともなく永久の繋がりを保てる。だから必要ないのか


しかしその精神世界の一部での私とは、一体どこの私なのか。
私は私を確認できない。なぜなら私は常に私であり、考えずとも私は私で意味が通るから。

しかし肉体の消滅後はどうだろうか。
私を証明してくれるのは、他でもない私という身体・物体だった。しかし今はない。
精神が世界をつくるこの場で、果たして私という存在を見つけることはできるだろうか。


あなたを認めてくれる人がいる。
あなたを愛してくれる人がいる。
あなたを嫌い、憎む人がいる。
あなたの回りには、沢山の人間がいる。
そして、その沢山の人の内に、或る種本当の姿の“私”がいる。


死ねば来世があるなんて甘ったれたことを言ってはいけない。
例えば、生まれ変わりがあることを前提と於いて考えるが、
生命にはその身体と、根源力となるの魂と、それらをあるべき道へ動かす心(上で言う意識のようなもの)があるとしよう。

死ぬと身体の活動が止まる。
すると魂は身体を離れ別の所へ行く。としよう。
では遺された心はどうなるか。


まず身体についての考察だが、これはあまり必要もなかろう。臓器移植や土葬・火葬問題は今回の議題に沿わない。

さて、魂の方だが彼らの行方を追うにあたって、彼ら魂の存在意義について少し考えてみよう。宗教色がですぎても宜しくないのであくまでも軽く。
私は葬儀等の作法は正直あまり知らない。訊く所に依ると、或る人が亡くなられてからは、初七日・四十九日という事をするそうで。
ふと思ったのだが、なぜこう何度にも分けて行うのだろうか?詳しく知らないのであまり下手な事言って誰かを傷つけかねないが、やはり告別式やら通夜やらと。
言い方は汚いがやっぱり周りの人は色々と大変だと思う。
愛しい人と少しでも長く!という思いには激しく同意できる。がしかし、宗教やら国籍やら気にしてない元自然崇拝派の日本人が何故すぐ自然に返してやらないのか。

思う事は沢山あるのだが、そろそろ字数限界で続きに書くenergyもほぼemptyなので、また次回。必要ならばですが。
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カテゴリ: こころ  いのち 

血を吐く程に叫んだら、僕の声は君に聞こえるだろうか



『この全世界で、たった一つだけ何でも叶えることができるとしたら、地球の為に一体何を願うでしょう?
温暖化の抑制?新エネルギーの誕生?絶滅危惧種の保護?

やっぱり、平和でしょうか。

みんなが幸せな、絶対的な平和を
やはり求めるのでしょうか。



正義や善といったものは不思議なもので、人やその生きる社会・宗教などでその姿を変えてしまいます。
だから何が一番良い願いなのか、なかなか決める事はできません。

そこでみんなは、多数決で決める事にしました。勿論、全員参加で後々不満の出ないように。

とんでもなく沢山のみんなが一票を投じる地球多数決は、多くの意見がぶつかり、各々で論議を交わし、難航するかと思われたみんなの希望の決定は・・・・思いの他すんなり決まりました。



多数決の結果、世界中のみんなは平和を得ました。

無益な戦争は無くなり、
環境汚染は止まって、
世界は幸せに包まれたのです。

みんなの願いが叶えられました。


こうして、地球上から人間が消え去ったのです。』






つい最近、どこかで読んだ、誰かの話です。
まあ趣旨というか方向性が同じだけで、本物をご存じの方からすれば
パクリもいいとこ。とんでもない駄文だ。
と言われても仕方ない出来です。すみません。

しっかし、どこで読んだのか思い出せず、一昨日からずっと悩んでます。
凄い衝撃を受けたにも関わらず、さっぱり元を思い出せません。
話を作ってくれた(教えてくれた)人に心からごめんなさい。誠に申し訳ないです。
そして、ありがとうございました。

また、もしこの話をご存じとあらば是非とも御一報ください。






上記の作品(もとい作文)は、うろ覚えの私が無い頭絞って私なりに童話風に書いたものですが、果たして話の要点は伝えられましたでしょうか?

“みんな”と聞いて、地球上の全人類60億人(もっと増えたかな?)だ
と、そう決め付けてしまい、“みんなの為”と謳いながらも結局は自分の事しか考えられない人間のエゴ

私はこの話を聞いたとき(見たときかな?)、何とも言えない生々しさと切なさ
そして言い表せない程の絶望感を感じました。



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カテゴリ: みち  いのち 

恋は私がみる夢。愛はあなたとみる夢。幸せは


夢から覚めても

あなたが居れば

私は幸せ。



幸せは、

目覚めれば、気付けばそこにある


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カテゴリ: こころ 

ヒトか、そうでないか。





あー・・・・・・さっき車に轢かれそうになった。
具合悪くてイライラしてた上に〜・・・だったので余計にプッツンきました。
だからひたすら毒吐いてます。


という内容↓




真面目にね、無いと思いますよあれは。本当に。
例えばね?私が信号無視してとか、動いてた車の前に出てとかならアタシごめんなさいだけど、彼(彼女かよう知らんけど)は停まっててだ、っつーか駐車してて、その後ろを通ろうとした瞬間にいきなり出てくんだもんね。怒るとかじゃなくてびびったわ。阿呆が。
まあね、真後ろでしたよ。距離も近かったですよ。あちらも急いでたのかな?そりゃ知らんけども。そりゃ知らんけどもさ、近づいてきた歩行者と今から出発する車が歩道の上でどっち優先ですかっつったら歩行者に決まっとろうがよ!

まじナメてんのかな・・・・車の方が強ぇんだよとか、ガキのくせにとか・・・・・・・・・・あぁ、ガキといえばね。はぁ。
縦社会嫌いです。生まれた瞬間に順位決まるとか・・・・・・・いや、そんな私の暗い過去の話はどうでもいい。今は車ね。うん。
いや、だってさ、そんなたかがガキひとりの為に世間体崩して金払って恥かいて謝って・・・・って馬鹿らしいじゃん?だったらもう少し気を付けようよ。ってか、そういう“分別”つけられるのが所謂“おとな”ってやつでしょうよ?ね?



↑なんて戯言、こんな腐った私が言ってみたりする(笑)
でもそれが“おとな”の“ヒト”ってものですよね?




嗚呼、最低な気分だ。


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カテゴリ: ひと  こころ 

夜空の星が教えてくれた、小さくも美しく輝く、眩い希望の光たち
































誰かを好きになったところで、お腹は膨れません。



















誰かを愛したところで、お腹は膨れません。






















しかし、

























どんなに旨い飯を喰ったところで、















こころが満たされることはないのです。






















あなたを愛するこころを持ち、あなたに愛される人間に












私はなりたい









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カテゴリ: みち  ひと 

答を知りたくば、己に訊け





産婆術に似ていると言われました。

ソクラテスが用いた問答法にも通ずる、そう言えば響きもよいかも知れない。が、私の話し方はあくまで揚げ足取り。そこまで崇高なものではない。と思う。
ただ、私には知識が足りない。だから「今、こんなとき、そのような態度をとることが本当に妥当なのか」と考えたとき、どうもしっくりこないことがある。
そういう時、私は「こうも言えないか?こうは考えられないか?」と問い質し、思索する。

深く考えずに出てきた答には、幾らでも反論が出来るし、その答はいとも簡単に崩れる。
即席の答では、まず回答者がその答がどういうことなのか解っていない。だから反論に耐えきれない上、説得力も無い。
更に言えば、考えることで見えてくるものも、見ることが出来ないのだから、解答というゴールへのスタートを切っていないのと同じなのである。

逆に、考えに考え抜いて見えたもの、煮詰まったものを更に煮詰めて見出したものは、回答者のその答に対する理解度も高く、反論したとしても直ぐに打ち負かされてしまう。
例え、考えた先に明確な答が見つからなかったとしても、考えた結果がゼロになることはない。必ず道標となって解答というゴールへ導いてくれる。

考えることに飽き、途中で投げ出してしまうのが必ずしも悪いと、今の私は言い切ることが出来ない。当然、当人の現在の分岐とは無関係な場合があるからだ。これから先、使うとも限らんし、それまで覚えていられるとも思えん。
しかし、この場合の考えるということは決してゼロにもマイナスにもならない。それに、考えることの練習にもなる。

考えることは思考することであり、意識することである。
仮に考える癖がついたとしても、無意識の内に熟考するということは有り得ないのである。


私はわからないのが悔しいから考える。
私はあなたのことを知りたいから考える。
私はあなたの為ではなく私の為に考える。
ひょっとするとそれが問答法に似ているのかもしれない。

私はこのように問い詰めていって最終的に失敗したと思ったことがない。
総て私の為になってくれた。


あなたもあなたの為に、今一度、あなた自身に問いかけてみてはどうか。










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Heavy Lance





「やさしさ」が欲しいとき



問題・障害、それらを起こすのは本人である。その人がどういう人であったとしても、自分で出したモノを自分でしまえないとは、笑えない話だ。
無論、物事に方向があれば、進み易い方と進み辛い方がある。
ただ、自分で造った壁を乗り越えられないなんてことはない。有り得ない。
何せ、その壁のてっぺんを決めたのは自分なのだから。
しかし、『頑張って乗り越える』のは辛い



「やさしさ」とは何か。



前述の通り、人は自分で壁を造り、乗り越え、強くなる。

しかし、なかなかどうして、自分で造ったのにもかかわらずその壁を越えるのが不可能に感じる。そんなとき、
しかし、なかなかどうして、自分の成長と共に壁が大きくなるとその分助走としゃがみ込みが大きくなる。そんなとき、
人は重い負荷を感じる。
そんなときは“私”が荷物を持ってやれば楽だろう。積み荷の軽くなる相手も、相手の事を考えなくて済む“私”も。

しかし、次の壁はどうなるだろうか。

自分の実力だと勘違いしてそこに立ってしまった“その人”はきっと乗り越えられないだろう。
“私”だって自分で造った訳でもない壁は乗り越えられないし、手伝ってもいられない。
だから、その「やさしさ」は「やさしさ」にならない



「やさしさ」を感じるとき



『淋しいときは些細なこともやさしく感じる』のは『やさしくいて欲しい』と思うから。
昨日も今日もくれていた筈の「やさしさ」を知り、受け入れることができる。



「やさしく」するということ



愛しい人、大切な人にはやさしくしたいと思うもの。でも、無闇に手を出しては相手をダメにしてしまう。けど、だけど、何かしたい。わかってあげたい。それだけでいいから。


それだけでいいと思う。
本当に「やさしく」するということは、やさしさを見せたり、押し付けたりすることではない。
本当に「やさしく」するということは、相手をわかろうとすることである。

相手が何を伝えたいのか、何を考えているのか、その全部を理解することは不可能である。
けれどその一部分なら、ひょっとすると理解できるかもしれない。
ちょっと頑張ればもっと沢山頑張れるかもしれない。
だから、もう少し頑張る。

そういう考え方が本当に「やさしく」するということではないか。



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幸せ展望台





幸せは、掴むまで、掴む直前が一番幸せな気持ちを感じたりする。

掴んでしまうと、『無くしてしまう』という不安に駆られる『もっと欲しい』という欲望に溺れる

霞んでしまった幸せは、元の姿には治せない。
しかし、経験は捨てられない。



頑張って上がったこの丘で眺めていると、少し先に小山を見つけた。『あっちの方が見晴らし良さそうだ』
苦労して登ったこっちの山の頂上から眺めていると、離れた所に展望台が見えた『あそこの方が高い。よく見える筈だ』
息を切らせて着いたここの展望台から眺めていると、遠く彼方に遥かな山影があった『自分より高い。糞、悔しい』

しばらく歩いて、気付けば周りに人影は無く。斜面を登る感触も無く。
ふと振り返ると後ろには楽しそうな人人人。そして満面の笑みを浮かべる誰より見慣れた人の姿。
そこで私はようやく解る。
自分は幸せだったのだと。



何かを手に入れる為に相応の対価は必要だ。私はここまでくる為に多くの対価を擲ってきた。自身が正常に働かなくなる程に。

幸せなんて、今の私の此処から見れば、低い低い、何ともちっぽけなもの。けれどもう味わえぬもの。

潤った生活を目指す。その為に努力する。
私は間違っていない筈。
なのに何故?



化学的に見れば、同じような“あれら”も一つ一つ別物だ。
けれどそれらを人が操ると、ある種の感情が起こる。『隣の奴の方が良い物もってるな』と。
“憧憬”とは異なる欲望。
実際にそのものが持っている訳でもないいわば“魅力の幻影”にとりつかれてしまう。

そしていつしか真の目的すら忘れて自分を見失う。

成長の過程で自然と離れていったもの達は、離れるべくして離れる。だからいつかまた手に入る。しかし自ら捨てたもの達は、離れる必要がなかったかも知れない。だからもう手に入れられないかも知れない。



結果だけ言えば、生き物は必ず死ぬ。全てのものは必ず壊れる。

ただ、こころの軌跡は、誰かが誰かに繋がっている限り、途切れることなく、のこり続ける。


















私の“こころ”があなたに残ることを願って








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知の壁 〜私は影響されやすい〜



『無知な事は罪である』

中学校の時、先生に言われた言葉で、何だかとても強く残っています。



最近は『ト○ビア』や『う○ちく王』とかで豆知識も人気者になりました。
しかし、同時にそれを鬱陶しく思ったりする人もいるんですね。

ですが、脳の特性からいっても新たな知識が入ることは脳にいいらしいです。
それに知識がなくて後悔したことはあっても、知識があって後悔したことはないと思います。
まず私は今までにありません。

しかしながら最近、情報からくる“知識”と考えることで身に付く“知恵”とを混同してしまっている方々をよく見ます。
ですが、今回私が言いたいのはそこではないのでまた今度。


今回は“先入観”について話します。

今、私達の周りには情報を得る道具が至る所にあります。
私達の疑問に色々な形で応えてくれます。ですが、当然応えてくれたもの全てが答であるとは限りません。『正しい答がどれか、的確に選ばなくてはならない』という話はよく聞きますね。
何故か。『それは答の中には嘘を言っている場合があるから』なるほど正解。しかし、こうも考えられないでしょうか。 「何を主(しゅ)と置くか解答者により異なるから」 と。

ある事柄について述べる時、大抵の人が『自分の考え』というものを持っています。そこには必ず答を自分の中から導き出す為のいわば“コンパス”のようなものがあるのです。
そのコンパスこそが“言いたいことの主”となる訳ですね。

意識的にも、無意識的にも解答者になった人はそのコンパスを使い自分なりの答を出そうとする。

けれど、そのコンパスを、生まれながらに完成した状態で持っている人などいないのです。
周りの世界を見聞き、体感し、学ぶことで完成させるのです。
このコンパスこそが私の言う先入観なんです。

今度はきく側の話、
人の話をよくきいて学習することは大変よろしいことですが、最近は『学習=学び』であると思い込んで、知識の採集に勤しむあまり考えることを忘れているようです。
これが恐ろしいことだとわかるでしょうか?
知識を自分にコピーすることはつまり相手を自分にコピーすることです。しかも、情報(知識)を得る道具の発達した今の世の中では先程の“コンパス”までも、コピー出来るようにしてしまうのです。
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届く光、伝わる想い









「あきの夜空には  光がある

私はいつしかその光に魅せられていた。



あきの光には距離があった

冷めた私の此処を照らし、温めてくれる

私に伝わってくるあなたを、私は身近なものだと思っていた

しかし同時に、触れる事すら出来ない程遠くにあることも感じた。



けれど私は見上げることをやめなかった


見上げたあなたは、私がいくら見つめても変わらぬその光を与えてくれた。



私は嬉しかった。私は楽しかった。私は好きになった。



見上げているだけで十分なはずだった。



私はいつしか夜空を見上げたまま歩くようになった

私の心はあきの夜空に手を伸ばしていた

そして、とうとう話かけた。



私の手は秋風に冷やされ、返ってきた

その手は私に私を見つめさせた。



悩んだ

私が少しの我慢をしていれば、この幸せは変わらぬその姿を保ち続けたのではないかと

そして何より、こんな私が喋りかけていいのかと
グシャグシャの頭で、ボロボロの布を被り、壊れた眼鏡をかけたまま、片足を引きずって歩く私に何が言えるのかと。



私は目を背けた

夜空を見たくないからではない

恥ずかしいのか申し訳ないのか、私には下を向くしか思いつかなかった。



私があなたを見つめるとき、あなたにも私が見えている

耐えられなかった

そうして私は逃げようとした。



すぐに後ろへ下がってしまっていた。



それでも、そんな私にも、あなたは優しかった


あなたは私にその温かな手を差し伸べてくれた。



もう、避ける必要などない。



今なら私は、しっかりとあきの夜空を見つめることができる。



私も今、この両手を伸ばしてあなたを求めます。


私は、あなたに出会い、あなたに認めてもらえた私を、誇に思う。






さあ、これから。
たった今から。







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こころメモ





1)『自分を持って生きる』と言うこと、それはつまり『普通をみる力を持つこと』

普通と自分を正しく比べられること。





2)『木を切らない努力をするぐらいなら、木を植える行動をしろ。
その方がよっぽどわかりやすくて確実だ。
何せ木は勝手に育つ』





3)『どうして勉強しなきゃいけないんですか?』

『何もわからず送る生活は楽しいですか?』





4)『どうして人を殺してはいけないのですか?』

『ではあなたは殺した“それ”を元に戻せますか?』





5)『どうして規則ばかりで自由が無いんですか?』

『舗装されていない道を歩くのは楽しいでしょう。しかし、道具の準備もせずに自由な旅が出来ますか?』





6)『私は今、楽しいです。
私は今、あなたと会話しています。
あなたは今、楽しいですか?』





7)『みた。憧れた。学んだ。考えた。あとは、あとは動くだけ』





8)『明日は明日の私に任せて、今日の私は有終の美を飾ろう』





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最近いくら文を書いても全くまとまりがつかず聞き手・読み手に大変な迷惑をかけていると思いつつも少しでも伝わればと祈りつつ贈る貧弱な文章




ふと、何の前触れもなく淋しくなることはないか?


私は、「たまに」ある。




私とあなたは生きている。
それも2つの世界で同時に。



私とあなたは同じヒトである。
目・耳・鼻・脳・・・同じ器官をもち、同じ世界で生きている。
概念世界でのあなたと私は『同じ』なのである。


また、
私は沢山の細胞で成っている。
そしてその細胞は日々生まれ変わる。
つまり昨日と今日の私は全くの別人なのだ。
無論、あなたと私は全くもって違ったモノである。




「私は今日、とても美しく輝く月をみた。その月は深い黒の夜空の一点で金色に光り....」待て、『金色』まあ、私には確かにそうみえた。

しかし、その時あなたと一緒に居たとして、同じように同じ月をみたとする。
果たしてその時私が感じる光とあなたが感じる光は同じなのか?

まるで当たり前のように言っている『赤・青・緑・・・』
果たして私が思う『それら』とあなたが思う『それら』は同じなのか?



そんな不安が時たまよぎる。


そういう時、私は喋る。
とにかく喋る。
ひたすらに。

そして聴く。
話を聴く。
黙ってはいられないが、出来る限り黙って聴く。


言葉は自分の感じたことを伝える、唯一の、一番の道具である。

だから「あなたを知りたいし、あなたを知りたい」そんな時、私は喋る。



お喋りの苦手な人は恐らく『知りたい・知られたい』とあまり思わんのだろう。



まあ、知るも知られるも、喋るも喋らんもあんたらの勝手であり私には関係ない。


しかし、外をみようとしない、自分の殻に閉じ籠もった“井の中の蛙”
私には格好いいとは到底思えん。

それに何より、近くにそんな人がいたら、私は淋しい。




淋しい思いはさせたくない。それが大切な人なら尚更だ。
少なくとも私はしたくない。









どちらかといえば心地良く生きたい。
それは皆“同じ”ではなかろうか。







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   器







  次元
一次元、二次元、三次元........
この世には幾つもの次元があると昔どこかの本で見た。
だが、それが一体いくつまで在るのか、私は知らない。
まず、よく判らない。



その本にはこんな事も書かれていた。

『一次元の“線”に棲むモノは二次元の“広さ”を解らず、二次元の“平面”に棲むモノ一次元は解っても、三次元の“高さが解らないんだ』

自分の許容範囲内なら他の世界も理解出来る。しかし、自分の許容範囲外の事は見ることさえ出来ない。(図があれば分かり易いのだが)



人の技術の巧みさや、心の広さをみて、その姿を昔の人は『器』と言った。

実に分かり易い。
奴に言いたい不満、奴から相談された不安。その全てを優しく受け入れ、支えてくれる器。

小さな器の人は頼って貰えない。
大きな器を持つ人は多くの人に信頼される。
小さな器の人はこぢんまりと終わる。
大きな器の人は他の誰かも支えられる。



感じて頂けたろうか。
次元と器はよく似ているということを。



しかし、次元と人の器には大きな違いがある。



次元というモノはその世界だけで終わってしまうが、人の器は広げることが出来る。



無論、生まれつき器の大きな人間なんていない。

ところが私の身の回りだけでも数多く、器の大きな、素敵な人が居る。

つまり器は広くなるモノなのである。


広くなるモノだが、それは勝手に広くなる事はない。
自らの手で、努力の結果、努力の分だけ広がるものである。



どんな人も生きていれば、今ある己の器では受けきれない程の重圧に遭遇する。
その時こそ器を広げるチャンスである。

人によっては耐えきれず器を壊してしまう人もいる。
そんな時には誰かに頼ればいい。多少の迷惑かけたって「ごめん」の一言で許される。それが友。


何も焦ることは無い。ゆっくり広げて行けばいいのだ。







チャンスを目の前にして逃げ出さず、存分に活かせ。


真っ向から几帳面に向かい過ぎず、休んだり、隙を探したりするのもいい。


器を持ち疲れたら、隣で微笑んでいる友人に少し支えて貰えばいい。


狭い世界で糞ツマラン人生を送るより、大きな器で広い世界を生きた方が楽しい。『大きな器』という目標を忘れないように。







これが私の言いたかったこと。
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針鼠の心情






私は社交辞令というものが全く効かない人間です。


『また今度ね』と言われれば、『今度』の予定をたてます。

『メールして』と言われれば、その日にします。

冗談が判らない訳では ありません。

冗談は言うのも聞くのも好きな方です。

世辞を知らない歳でもありません。

だからわかっています。

ただ、

嬉しかったんです。


また言ってやって下さい。




嫌われるのは得意です。
好きではありません。

嫌われるのは慣れました。
嫌われて平気ではありません。


私は嫌われたくはありません。
できることなら好かれたいです。

けれど、それ以上に忘れられることが恐ろしいのです。

あっさりと忘れられるくらいなら、強く記憶に残りたい。
例えそれが『嫌い』という感情だとしても。


けれど、一番な人には、やっぱり、好かれていたい。かな?




よく『くどい』『しつこい』と言われます。

好きな人に言われた時は 流石に凹みました。


違うんです。これはわざとではないんです。


しつこくした後は決まって自己嫌悪です。

愛も希望も亡くします。


特別な感情を抱いた人に多くこんなことしてしまいます。


これが原因で嫌われた事が何度あったか。

自ら友人を減らしていると感じます。




自分がされて嫌なことを 気付くとしています。


とりあえず私は私が嫌いです。

自分を愛せない人間が誰かを愛するなんて、、、体力が保ちません。

それでも愛されたいとは思ってしまうのです。

勝手です。
勝手過ぎます。
そこも嫌いです。

こんな私の話すら黙って聴いてくれるあなたのことが私は好きです。
優しい人です。あなたは。


けれど愛することは出来ません。

私は私が嫌いだから。




先日はすみませんでした。
ダラダラと、そちらの事情・感情も考えずに。
余りの嬉しさに我を忘れておりました。


ええ。私事です。
が、直接言う勇気など見当たりません。
遠回しに遠回しに、届くことを祈ります。

散々謝っておいて また話したいなんてぬかしやがります。こいつは。

許してやって下さい。


そして、


また話してやって下さい。




楽しい人を観るのは好きです。

私も楽しくなれます。

でも、楽しそうな顔をするのは苦手です。

私は楽しんでいます。








楽しいです。とっても。



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小学校へ行く前から昨日までで考えた事を今日の私が客観的に見て思ったことのひゃくぶんのいち






私は小さい頃からよく『気難しい奴だ』と言われてきた。

頭の回転が速いとは言えなかった(当然今も)私は考え込む事が多く、よく喋るのも、会話を待ってくれる先生とが多かった。


そんな私も大喧嘩をした。
理由はほんの些細な事。今思えば阿呆みたいな意地の張り合い。
そして三日後には無事に仲直りしてた。


『喧嘩するほど仲が良い』けれど私はそれとはまた違った考えを持つようになった。

喧嘩別れも仲直りも、始まりも終わりも言葉である。




私は人間を進化の先端だと思ったことは一度も無い。
頭に付いたデカい理性の塊のせいで他の生物の様に、本能で相手のコトを読めないし、当然仕草で意志を伝えたりも出来ない。


物事はその多くが補完的であり、「足りない」だけでは終わらない。
その足りない(足りなくなってしまった)部分を言葉が埋める。その役割を請け負っているのだと私は考える


言葉の在るべきは『can』ではなく、『must』だと私は思う。


隣人は勿論、妻も夫も我が子でさえも、言うなれば他人。他の人である。
そんな互いの心を示すのは唯一言葉だけなのだ。

聞こえなくても見えなくても、言葉はどの世界にもある。

それは言葉が必要だからなのだ。

在って当たり前なのではない。なくてはならないモノ。


しかし、最近は言葉ないし文字に対しての意識が薄れてきていると、私は感じる。



だがしかし、前にも言ったかもしれないが、私は勿体無いのが嫌だ。


存在すべきモノがまだちゃんと存在している。

遣わないなんて勿体無いことはしたくない。

せっかくなんだからみんなでもっと言葉を遣おうではないか。


















楽しく、生きよう。










ここで私の言う『言葉』というモノの意味は一般的なものとは異なるかも知れません。

私の著したい意味を汲み取って頂けると幸いです。
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