「そういうの、やめたほうがいいですよ」

 で、「そういうの」っていうのがどういうのなのか全くわからないまま、それでも正義がそこにあるもんだと無自覚に信じて断言する。
 自分が得するからそれが正しいって事にはならないしその他大勢が得をするだろうから自分が苦しくても我慢すべきだっていうのも違う。他人には迷惑をかけていないように見えるならその範囲内でなにをしたって許されるし、逆にその範囲をでたら必ず処罰されなくてはならないと本気で信じていたからそれは仕方がなかったのかもしれない。

 でも残念ながら、本当に残念ながら人は『成長』をする。
 必要な知識を感じながら足場を崩していって徐々に徐々に自分の場所を限定させていく。

 だけど、崩れていった足場の上から見えるのは希望でも確約でもなくて、ただ「足場がない」という姿それだけだ。

 使えるから正義で、使えないから悪。
 半ば白けながら「それは違うな」と思う。これは本心だ。
 同じ程度本気で「それが真理だ」と語る。これも本心だ。
 昔と今では、言っていることは同じでもその意味しているところまでは同じとは限らない。これは、言っていることが違っても意味しているところは同じであるという可能性を示唆するものではないというのは、あえて言うまでもなかったのかもしれない。

 そして、こうやって人は『成長』をしていく。


「そんなに私の運転は酷いですか?」
「いや、僕の三半規管が悪いんです。申し訳ない」
 返答として「気にしないで」とか「大丈夫だよ」とか言わないのは気遣いなのか皮肉なのか。なんともいえないので、
「なんとか『乗らない』という方法が見つかるといいですね」
 と、返しておく。

 苦笑いが格好いいのはずる。