嘘をつく人が嫌いだ。
それは僕が僕を嫌う理由の一つ。
昔――と言えるほどの時は経っていないかもしれないが――ある人に「自分のことが嫌いだ」と言ったことがある。
そういう内容の事は今までに何人かに言ったりしたことがあって、別に“告げた”と言う事実事態にさして特別な所は無かったんだが。
僕は、その後の、彼女の返答に驚いたんだ。

どうしてそんな事を言う状況になったのか、今はっきりと思い出すことは出来ないけれど、たしかその時は学校からの帰り道で日も沈みかけていた頃だったと思う。
いつも思っていることだったから、僕は特にいつもと変わらない声の調子で、表情もさほど変化させずに“それ”をポツリと呟いた。
何の気なしに言った言葉に対する反応だし、別に大きな期待もしていなかったのだが、全くの無反応というのもちょっと困ってしまったので僕はつい彼女の方を見てしまった。正確には“彼女がいた方向”なわけだが。
並んで歩いていたはずの彼女は気づくとそこには居らず、僕の少し後ろの方で立ち止まっていた
斜め下の方を見ていたからはっきりとは見えなかったが、その立ち姿からなんとなく彼女が怒っているような空気を察知した僕は
「えっと・・・・・なしたの?」
と、文字で書いてもわかるくらいに恐る恐る近づいて、訊いてみた。
顔を上げた彼女は口を真一文字に口を結んで僕を見つめた。普段は明るく、快晴のような笑顔の似合う彼女がみせた突然の表情に僕はついひるんでしまったのだった。力のこもった黒目勝ちの円らな瞳は涙に濡れている・・・・・・ように見えなくも無かった。
問題は彼女が怒るにしろ泣くにしろ、タイミングや状況的に原因がこの僕であることは明らかで、だったらどっちになるとしても僕はここで何らかのフォローをしなくてはならない。いや、するべきだ。
しかし、思うだけなら誰にだって出来る。問題は“何をするか”なのだが・・・あー・・・果たしてこのなにもわからない状況で一体何ができようと言うのか。
僕の苦手な“真面目な空気”に、耐え切れず目を逸らしてしまったところでやっと彼女が口を開いた。
「どうしてそんな悲しいこと言うの」
言葉の内容からして恐らく語尾にはクエスチョンマークがついて然るべきなのだろうが、僕の心境と彼女の声の勢いから問いかけのニュアンスを感じ取ることは出来なかった。

「悲しい」というのは、あまり言われ慣れていない感想だった。
「そんなこと無い」とか「なんでそう思うの?」とかいった範例的な返答を差し置いて出てきた彼女の「悲しい」という感想に、僕は
「・・・悲しい?」
と、言われたことをそのまま返すことしか出来なかった。
それからまた、暫くの沈黙があって
「自分のことが嫌いだなんて、そんなの淋しすぎるよ」
そういえば、彼女は前に「自殺は淋しいからしちゃいけない」と言っていた。僕は“淋しい”より“悲しい”じゃないかと思ったのだが、彼女が言うには
「自分を殺すっていうのは、最終的には誰の為にもならないじゃない。別に誰かの為に生きることが素晴らしいとか言いたいんじゃなくて・・・自分で自分を殺しちゃったら、そりゃあ自分を苦しめる誰かから逃げることは出来るでしょうけど、それと同時に自分を認めてくれる人を否定するって事じゃない?どんなに散々な人生を送ってきたあんたにだって、それも全部ひっくるめて認めてくれる人はいるでしょうよ。愛なんてくさい言葉は遣いたくないけど、自分を殺すって事はそういう愛情も否定するって事なのよ。そんなのって、すごく悲しくて、淋しいことじゃない」
彼女のマシンガンから放たれた銃弾は、僕に息継ぎの暇も与えず飛び去っていった。
一度火がつくと炎になって灰になるまで収まらないのが彼女の性分なのだが、その時ばかりは午後の予鈴と移動教室に阻まれ強制終了させられた。
その後も「せめて支えてくれた周りの人たちに恩返ししてから逝くべき」とか「そもそもせっかく授かった命がもったいないとは思わないのかしら」などとだいぶぼやいていたが、放課後近くにはもうすっかりいつも通りの明朗快活な姿を取り戻しており、それを横目に僕もいつも通りによれた鞄を肩に提げるのだった。
と、そこまで思い出してやっとそれが今日の出来事だったと気づくこの脳みそは一体どんな原理で動いているのか、もとい正常に動作しているのか、疑問を感じずにはいられなかった。

ところで彼女の方はというと、これほど僕が黙っていたのだから今日の昼の分もまとめての集中砲火が降り注いでもよかったのだが、意外なことに彼女もまた僕と同様に黙ったままで俯いていた。
人通りは少ないとはいえ路上で一定の距離を置いたまま向かい合ってただただ立ち尽くす姿は、はたから見ればおかしな光景で、時間も過ぎてゆくだけだし何より恥ずかしかったので、僕らは帰り道の続きを歩き出した。
「帰ろう」と声をかけても彼女はだんまりを決め込んでいたので歩き出すのにもまた時間をかけてしまったが、そんなことより僕はこのぽっかりと空いてしまったこの隙間をどうやって埋めようかということで頭がいっぱいだった。
2,3歩後ろにはつま先を見ながら歩く女の子がいて、こんな風になった原因はなの僕だからいっそ一思いに謝ってしまおうかとも考えたが、理由もはっきりしないままに謝ってしまうのは自分自身の僅かばかりのプライドが許してくれなかった。

足音をBGMに、無言のまま歩くうちにとうとう彼女の家まで到着してしまった。
普段なら、笑ってない時間の方が少ない彼女が扉の向こうに消えるまで眺めてから、小さな達成感をかみ締めつつ帰宅するのだが、今日のこの状況でその達成感は味わえそうに無い。というよりこのまま今日が終わるのはすごく不愉快だった。
その気持ちは彼女も一緒だったのか、とれとも不思議な念波で伝わってしまったのか、気づかぬうちに声に出していたのかは定かではないが、彼女もまた公道のぎりぎり内側に突っ立っている僕と同様に、玄関の扉の一歩手前で立ち止まっていた。
未だに俯いたままの背中にかけるべき言葉が最後まで見つからなかった僕は結局それを言ってしまった。
「ごめん。」
理由はわからないけど謝っとけばなんとかなるだろ。などといった短絡的な考えで言ったつもりは全く無かった。
ただ、帰り道はいつものことでも、僕にとってその時間は何物にも変えがたい楽しい時間で、それはきっと、たぶん彼女にも同じことだろうから・・・・・それを僕の発言で潰してしまったのなら、謝るより他にすべきことが見当たらなかったからだった。
「それ、前にも聞いたよ」
小さな背中は小さな声で呟いた。
「謝るのはもういいから。  私がいること・・・忘れないで」

いつもより2時間以上遅い帰宅時間について母親からこっぴどく叱られた後、冷え切った飯をさっさと片付けてから部屋に戻り、制服のままベッドに寝転んだ。
それから、彼女の最後の言葉の意味を考えているうちに眠ってしまった。
言われた直後の、首筋の辺りがあったかくなるような不思議な感覚と、彼女の囁くような声の中で、僕はとても幸せな夢を見た。