文化とは、その語源が意味するとおり自然に人が手を加えて形をなすものである。
またその形態は地域や民族により多種多様である。
ただまあ今回重要なのはそんなことじゃなくて、その文化というものがこの広い地球上のいたるところに形成されているということである。
よく「ゴキブリ並みの生命力」なんて比喩表現があるが、人間の侵略能力もなかなかバカにできたものじゃないと私は思う。
TVやなんかでジャングルの奥地の映像などをみると、そこは危険で恐ろしい別の惑星化のように映る。
武器となるような身体的特徴を持たないひ弱な人間が、未知の領域に恐怖感を抱くのは生き物として自然なことかもしれない。
しかし人はそれ以上に「ヒトがいない世界」に対して強い恐怖を抱いているのかもしれない。
たとえば「孤島」「無人島」というキーワードは映画でも小説でも使い古された、しかし今なお使われ続けるテーマである。
外部と隔絶された世界が恐怖であり異常な事態である。ということは、人は他者とつながっている状態で初めて正常だと言えるのではないだろうか。
「人間」という字のごとく。
文化は発展していくものである。
発展とは一人の一つの行いで成り立つものではない。
文化とは人間によって発展していくものなのである。
けれどそれくらいのことは他の生き物だってしてる。
毒を持つカエルやヘビは見るからに毒々しい体の色をしている。
そうやって自分が危険なものを持っているということを周りに示しているのだ。
そしてなにより周りにいる生き物もそれが危険であるということを知っているのだ。
アレを食べると死ぬ、コレを食べると危険というのを、経験として共有することで身にかかる危機をより少なくしているのである。
経験や体験といった記憶の共有によって生きることをより容易くしているという点ではヒトも他の生き物も大した違いはない。
しかしヒトにはその記憶の共有をより高速かつ強力に行うすべを持っている。
それが言葉だ。
なにをするとどうなる。
そういった体験や経験などの記憶を、その時その場にいた相手だけでなく、遠く離れた場所や時間にいる相手にも伝えることができるこの言葉という武器でヒトはその文化を効率的に発展させていった。
言葉を用いた記憶方式によって人間は人間らしい文化を作り上げていった。
逆にいえば、文化とはある種の記憶形態なのである。
世襲がはたして悪いものかという議論は今はしないが、効率的な記憶の継承は効率的な発展につながる。
このような考え方は今日の科学至上主義にもつながりかねないし、表現のおおもととなる「こころ」のようなものはどこから来るのかなどといった問題点もあるが、それについてはまた別の機会にでも。