『死が2人を分かつまで』

どんなに愛し合っていても、死ねば関係ないのだろうか?

それとも、死後の世界では、私はあなたの中の私とは別。無論、あなたと私の中のあなたも別。それは意識が創り出すもの。
肉体が滅び、精神だけがただ在るその世界では、あなたと私は誰に認められるともなく永久の繋がりを保てる。だから必要ないのか


しかしその精神世界の一部での私とは、一体どこの私なのか。
私は私を確認できない。なぜなら私は常に私であり、考えずとも私は私で意味が通るから。

しかし肉体の消滅後はどうだろうか。
私を証明してくれるのは、他でもない私という身体・物体だった。しかし今はない。
精神が世界をつくるこの場で、果たして私という存在を見つけることはできるだろうか。


あなたを認めてくれる人がいる。
あなたを愛してくれる人がいる。
あなたを嫌い、憎む人がいる。
あなたの回りには、沢山の人間がいる。
そして、その沢山の人の内に、或る種本当の姿の“私”がいる。


死ねば来世があるなんて甘ったれたことを言ってはいけない。
例えば、生まれ変わりがあることを前提と於いて考えるが、
生命にはその身体と、根源力となるの魂と、それらをあるべき道へ動かす心(上で言う意識のようなもの)があるとしよう。

死ぬと身体の活動が止まる。
すると魂は身体を離れ別の所へ行く。としよう。
では遺された心はどうなるか。


まず身体についての考察だが、これはあまり必要もなかろう。臓器移植や土葬・火葬問題は今回の議題に沿わない。

さて、魂の方だが彼らの行方を追うにあたって、彼ら魂の存在意義について少し考えてみよう。宗教色がですぎても宜しくないのであくまでも軽く。
私は葬儀等の作法は正直あまり知らない。訊く所に依ると、或る人が亡くなられてからは、初七日・四十九日という事をするそうで。
ふと思ったのだが、なぜこう何度にも分けて行うのだろうか?詳しく知らないのであまり下手な事言って誰かを傷つけかねないが、やはり告別式やら通夜やらと。
言い方は汚いがやっぱり周りの人は色々と大変だと思う。
愛しい人と少しでも長く!という思いには激しく同意できる。がしかし、宗教やら国籍やら気にしてない元自然崇拝派の日本人が何故すぐ自然に返してやらないのか。

思う事は沢山あるのだが、そろそろ字数限界で続きに書くenergyもほぼemptyなので、また次回。必要ならばですが。